「在りし日の欠片」


 首都ベリスの郊外。
 閑静な、と言うより、すでに山へ入り込みかけているせいで人通りの少ない、フェルターク地区の一角にある医院の側に、一人の少女がたたずんでいた。
 雪こそ降っていないし、今日は珍しく暖かな日だったが、数時間もそこに立っていたのでは、いい加減凍えると言うものだ。
 医院に出入りするのは、ほとんどがクルブリスタ人には珍しい、浅黒い肌をした人たち。銀狼のシルバリオ一族に連なる人たちだった。
 少女は、彼らとは違う、白い肌をしていた。伏し目がちな青い目に、長い銀の睫が影を落としている。服装は上品で質の良い物だが、少し流行に後れている感じがした。
 毛糸の帽子から流れ出る長い銀髪は、無造作に三つ編みにされている。クルブリスタ人には、こちらの方が珍しいだろう。普通クルブリスタ人は、独特の様式に沿って結ったり、老若男女問わず、髪飾りをつけるものだ。
 消え入りそうな・・・そんな表現が似合う、儚げな印象の少女だ。
 少女は、ここより首都に近い街に住んでいた。しかし、今日は彼女にとって特別な日だったので、約束もしていなかったが、ここまで一人でやってきたのだ。
 ・・・しかし、訪ねる勇気が出なかった。
 ここまで来たのに、なにをやっているのだと自分でも思うのだが、どうしても呼び鈴を押す勇気が出なかった。
 少女の革製鞄の中には、手作りの糖衣菓子が、潰れてしまわないように丁寧に包装して収まっている。これを渡して、一言二言言葉を交わせばすむことなのに、まず相手を呼び出すことが、消極的な少女にとって最大の難関だった。
(どうしよう・・・)
 そう思っているうちに、すでに昼を過ぎ、日は傾いていく。
(やっぱり、邪魔になるわ。帰りましょ・・・)
「リタ=ルーエナ?」
「え・・・」
 顔を上げると、強烈な印象を与える風貌をした、若い男が立っていた。
「やっぱり。どうしたの?入りなよ」
「ラース=ジェイルお義兄様・・・」
 少女が知っている人間だった。大方のクルブリスタ人と同じ、白い肌に長い金髪。そして、右が金、左が青と言う、珍しい左右色違いの目。少女が心寄せる人によく似た、すばらしい美形。会いたい相手の、二番目の兄だ。
「お義兄様・・・は、ちょっと・・・。ラースか、兄貴でいいんだけどな」
 秀才で、少し近寄りがたい雰囲気を持っているラース=ジェイルだったが、親しい人間には優しい笑顔を見せることを、少女・・・リタ=ルーエナ・オンドワールは、最近知った。
 彼の家族はとても親切にしてくれるので、リタ=ルーエナはみんな大好きだった。しかし、遠慮が先に立って、なかなかくだけた会話をすることもできないでいた。
「ティウルス=ジェイルに用なんだろ?・・・ああ、そうか、今日はレニ・ヴェテ姫祭か。・・・あいつなにやっているんだ?」
「あ・・・あの、そ・・・の、やっぱり、お邪魔に・・・」
 真っ赤になったリタ=ルーエナに、ラース=ジェイルはくすりと微笑みかけた。
「会っていけばいいのに。あいつ喜ぶよ?」
「でもっ、お勉強のお邪魔に・・・。試験が近いはず・・・」
「陣中見舞い、陣中見舞い。ほら、おいでよ」
 登山道具に雪掻き道具一式と、すごい大荷物を担いでいるにもかかわらず、ラース=ジェイルは涼しい顔で医院の脇にある自宅の玄関へと歩いていく。
「あのっ、ラース・・・ぉ兄さま・・・!」
「なぁに?」
 振り向いたラース=ジェイルに、リタ=ルーエナはぺこりと頭を下げた。
「す、すみませんっ、あの、やっぱり・・・ティウルス=ジェイルに、がんばってと、それだけ・・・すみませんっ!」
 だっと駆け出したリタ=ルーエナが、途中で転ぶんじゃないかと予想をしつつ、ラース=ジェイルはその小さな後姿を見送った。

 雪国であるクルブリスタの住宅は、保温性と機密性に優れている。壁や床も分厚いので、よほど大きな音でない限り、同じ家の中でも気付かないぐらいだ。
 それでも、木製の扉を叩く音ぐらいは、室内にいる者にも聞こえる。
「どーぞー」
 辞書や参考書、羊皮紙に埋もれて勉強机に向かっている弟に、ラース=ジェイルは扉の側から声をかけた。
「ティウルス」
「ん?あ、お帰り、ラース兄貴」
 振り向いたティウルス=ジェイルは、兄のラース=ジェイルによく似ていたが、両目とも金色をしていた。大学に入ったばかりで、自分の進路のためによく勉強していた。それもすべて、彼女あってのことなのだが・・・。
「ただいま。・・・リタ=ルーエナがきていたよ」
「え・・・あっ、今日・・・!すぐ行く」
「・・・もう帰っちゃったんだけど」
「えええええ!?」
「がんばって、だってさ」
「いや、がんばるけどさ。なんだよ、僕には会っていってくれないとか・・・悲しすぎだろっ!」
 ぱっと輝いていた笑顔が、最後にはううっと泣きまねにはいるような、ころころと表情の変わる弟を、ラース=ジェイルは可笑しそうに眺めた。
 三人の兄弟の中で、一番明るくてひょうきんなティウルス=ジェイルだ。上の兄であるアレイス=クルーガは、逆に真面目で、たまの冗談が、本気なのか冗談なのか判断に困るような人だ。
「ずっと外で待ってたみたいだよ。今から行けば、追いつくんじゃない?」
「外で!?なんだってそんなとこで・・・あー、もう!ちょっと行ってくる!」
「家まで送ってやれよ。母さんには言っとくから」
「わかった。あんがと、兄貴!」
 外套を引っつかんで、小さな包みを懐にしまい込むと、ティウルス=ジェイルは兄が放ってよこした襟巻きを上手に受け取り、自室を飛び出して、足音高く階段を駆け下りていった。
「いってきまーす!」
「気をつけてな」
 兄の声は、玄関扉を開け閉めする音にかき消された。

 せっかく作った糖衣菓子が入ったままの鞄を抱えて、リタ=ルーエナはとぼとぼと歩いていた。
 実はさっき転んでしまい、鞄越しに菓子を少し潰してしまったので、泣きそうになっていた。
(どうしてこんなに鈍くさいのかしら・・・)
 次第に賑やかになっていく街並みの中で、自分だけが灰色に落ち込んでいるようだった。
 店先を飾る、色とりどりの光。あちこちから漂ってくる、甘い菓子の香り。幸せそうに連れ立って歩く男女・・・。今日は、レニ・ヴェテ姫祭。一年に一度の、愛の祭り。
 リタ=ルーエナは、我知らずため息をつく。
 今日は大好きなティウルス=ジェイルとすごしたかった。でもやっぱり、自分には過ぎた望みなのだ。いまはただ、彼の邪魔にならないようにしなくては。
(それなのに、家にまで押しかけて、ラース兄さまに見つかってしまうなんて・・・)
 穴があったら入りたい気分だった。
 しょんぼりとうつむいて歩く彼女を、他人はふられたのではないかと見るだろう。しかし、そうではなかった。リタ=ルーエナには、ちゃんと恋人がいる。
「リタ=ルーエナっ!」
 ひゅんと、リタ=ルーエナの側を通り越して急停止し、魔法で浮かせた滑空板をつま先でひょいとはじき上げて、小脇に抱える。その一連の動作が、とてもさまになっていた。
「追いついた!」
 リタ=ルーエナを見下ろす笑顔が、とても眩しい。
 贔屓目でなく、ティウルス=ジェイルは本当にかっこよかった。涼しげな目元も、くっきりした眉も、無理なく通った鼻筋も、いつも冗談を言っては、リタ=ルーエナを戸惑わせたり笑わせたりする赤い唇も・・・。
 どうして彼が他の女の子ではなく、自分を選んだのか・・・リタ=ルーエナはいまだに不思議だと思っていた。告白されるまで、自分は彼を素敵だと思ってはいたが、彼の心を惹かせるようなことをした覚えなど、まったくなかったのだから。
「ティウルス=ジェイル・・・どうして」
 大学での試験が近いはずだ。こんなところまで自分を追いかけてくるはずが・・・。
「なんで家まできといて、僕に会っていかないの。寂しーでしょっ!」
「あ・・・の、でも・・・」
「遠慮しない。僕だって会いたかったし・・・うちの家族、リタをいじめたりしないよ?」
「ええ、もちろん。みなさん、とても優しいわ」
「そうでしょ。みんなリタ=ルーエナのこと好きだから」
「・・・えと・・・」
「その中で、僕が一番先にリタを好きになったわけだし、一番大好きなんだから、僕に会わないで帰るって、どーゆーことさー!」
 ほとんど駄々っ子のように、むきーっと地団駄を踏まれても、リタ=ルーエナは困る。どこまで本気で、どこまで冗談なのか、わからないのだ。
「あの・・・ごめんなさい」
「そこ、謝るところじゃないんだ。『知るか、馬鹿。勝手に悶えてろ!』って、突っ込むところ」
「え・・・あ・・・」
「リ〜タ〜、会いたかったよ〜!」
 満面の笑顔でぎゅっと抱きしめられると、もう何も考えられなくなった。優しいティウルス=ジェイルの匂いがする。大好き、ただそれだけが、ぐるぐる回って、リタ=ルーエナの心を満たしていく。
「ごめんね、僕が行こうと思っていたのに、すっかり忘れてて・・・。遠いのによく来たね。一人できたの?」
「うん。・・・ちょっと、迷っちゃったんだけど。お医者さんの場所を聞けば、教えてもらえたから」
「あー、そっか」
 開業医の父を持つティウルス=ジェイルだが、志望は医師ではない。一番上の兄がすでに継ぐことになっているので、下の兄弟二人は、別のことで身を立てることにしていた。
 並んで歩きながら、リタ=ルーエナはとても幸せだった。さりげなくつないだ手のぬくもりに、心弾むことはあっても、戸惑うことは少なくなってきた。最近は全然会えなくて、とても寂しかったのだ。
 現金なもので、さっきまでは綺麗なだけで冷たいまがい物のように感じていた景色が、いまは焼きたての菓子を、薔薇色の薄布でめいっぱい飾り立てたように感じられた。