好きということ


 ちゅっと唇が触れた足首は、安いフェイクレザーに擦れて赤くなっていた。柔らかそうな栗色の巻き毛頭を見下ろし、大和はぼんやりしていた表情筋が緩く動くのを感じた。
「ふふっ、まだ足りませんか?」
「ううん。もう十分」
 見上げてくる屈託ない笑顔が、大和の微笑を見てさらににっこりと笑う。
「大和さんは疲れちゃった?」
「ええ、さすがに・・・・・・」
 珍しく休暇が続いたからとはいえ、八時間耐久緊縛プレイは疲れた。あちこちすりむいて痛いが、それ以上にパドルでひっぱたかれ続けた尻と踏まれた背中、針を使わないクリップ式リングピアスで挟まれていた乳首と陰嚢が痛い。胸や腹、内腿には、バラ鞭で打たれた蚯蚓腫れが出来ていた。さらに、喘ぎすぎた喉も少し痛い。傷をひとつひとつ眺めてプレイ内容を思い出すだけで、とても幸せな気分になった。
 腕も脚も腰もだるいが、頭の中はいやにすっきりして思考がおぼつかない。綺麗に掃除をしすぎて、物が出せなくなった部屋のようだ。
「・・・・・・・・・・・・」
 もつれた長い髪を梳いてくれるダンテに、アンバランスな体をこてりともたれかかせると、慌てたようにしっかりと抱き止めてくれる。安心して寄りかかれる誰かがいる、その贅沢さに満足するとともに、どこか後ろめたい罪悪感が、目の奥の方をチリチリと刺激した。
「大丈夫?」
「はい・・・・・・とても、疲れました。でも、まだ気持ちよくて、気分がふわふわしています」
 大和の頭を撫でていた手が、髪を引っ張ってしまわないように配慮しながら、首筋や肩をマッサージしていく。ほとんど撫でるような強さだったが、温かくて、ついうとうとと微睡かける。
「ん・・・・・・気持ちいいです」
 しかし、その少し荒れた指先の感触が、綺麗に片付きすぎた大和の頭の中に、情報という荷物を送りつけてきた。
「ちょっと失礼します」
「なぁに?」
 自分の左手でダンテの手を剥がしてじっと見ると、やはり指先が妙に荒れて、皮膚が厚くなっているような気がする。肉体労働者ほど色素沈着をおこしていないし、消毒液に浸かり慣れた大和の手とも違う。薬品焼けや、水仕事による荒れとも違う。
(原因はアルカリ?似ているけどそれだけじゃない・・・・・・植物毒?)
 園芸品種の花でも有毒植物は意外と多く、口に入れなければ大丈夫というものから、触っただけでかぶれるものまで幅広い。イラクサ、キョウチクトウ、アヤメ、スイセン・・・・・・と脳内の植物図鑑と薬学書を広げかけて、大和は投げた。そんなことを突き詰めても、意味がない。
「園芸がご趣味だったんですか」
「えっ、すごい。なんでわかったの?」
「痛痒くないんですか?軍手はした方がいいですよ」
 大和の指摘に、ダンテは「慣れちゃったんだ」と恥ずかしそうに頬を赤らめ、作業中は軍手を付けることを約束した。
「そうか、ザラザラして痛かった?」
「普段は気にならないですよ」
 ただ、今日は首輪がこすれたところと、そうでない所の両方に当たったせいで、いつもは気に留まらないことが気になっただけなのだ。
(そういえば、何回目でしょうか・・・・・・?)
 片手に余るほどは二人きりの時間を過ごしたはずだが、二人の間は一定のままだ。SMの主従関係でもなければ、恋人でもない。セックスを抜かせば、ただの男友達が一番近い。
「ダンテさん、なんで僕をぶってくれるんですか?」
「はいぃ?」
 奇妙なイントネーションが飛び出たダンテは、しばらくもごもごと言葉を選び、ため息交じりに答えた。
「大和さんが踏んでください、ぶってくださいって言うからだけど・・・・・・」
「それだけですか?」
「血を舐めさせてくれるから・・・・・・」
「でも、たいした量ではないですよね?正直なところ、もっとぎゅうぎゅう吸われるのかと思っていました」
「ええっと・・・・・・」
 ダンテはひとつ咳払いをすると、大和の腰を抱え直した。
「あのね、俺は大和さんが大好きだから、大和さんが喜ぶことをしてあげたいと思っている。俺だって、好きでもない人より、好きな人の血を舐めたいと思うし・・・・・・」
 ダンテにとっては利害と好意が一致した、ということらしい。それを言うなら、大和としても利害と信頼が一致したからで、まあ納得できる。
「僕は、好かれていたんですか」
「好きじゃなかったら起たないってばー」
 んもー、とダンテが唸って、大和の首後ろのあたりにぐりぐりと額をこすりつけてくる。
「だから、大和さんが嫌がることはしたくないし、喜ぶことはできるだけしてあげたいと思う。だけど、大和さんから顔を殴れって言われても、俺は嫌だって拒否するよ」
 好きだからこそ、そこは譲れないとダンテは鼻息を荒くする。
「・・・・・・そうですか」
「そうです。だからね、大和さんが、俺以外の人に踏んでもらいたければ、それでもいいんだよ」
「え?」
 大好きと言われておきながら肩透かしを食らったようで、大和は首を捻じ曲げて至近からダンテの青い目を見つめた。
「大和さんがその人を好きで、俺よりもその人に踏んでもらいたいって思うなら、俺に止める権利はないよ。俺が一番でいたいとは思うけど」
「ダンテさんは、それでいいんですか?」
 大抵のわがままを二つ返事で請け合ってくれるダンテに甘えている自覚があるのに、自由を保障されて腹を立てるとは何事かと大和自身も思うが、なんだかムカつくのだから仕方がない。
「だって、大和さんは、別に俺のこと好きって程じゃないでしょ?」
「す・・・・・・」
 好きか嫌いかと言われれば好きだが、ダンテと同じ意味で好きかどうかは微妙なところだ。気持ちいい事をしてくれる人、危険なことをしない信頼できる人、一緒にいてリラックスできる気の置けない人ではある。だが、それとこれとは別なのか、その延長線上にあるものなのか、判断がつかない。それに、大和には・・・・・・。
 なんだか頭が痛いと大和は眉間に力がこもった。こんなに面倒なことを、なぜダンテは言いだすのか・・・・・・。
(あ、言わせたのは僕でした・・・・・・)
 数分前の自分の口を塞いでやりたいと、大和はこめかみを押さえた。体が八時間分の快楽を享受した疲労を訴えて、頭が考えることを拒否し始めている。首筋や頭がツキツキと痛む。
「つっ・・・・・・」
「大丈夫?」
「偏頭痛でしょうか。脱水を起こしているのかもしれません」
「やっぱり八時間はやり過ぎだよぉ!」
 ダンテに取ってもらったペットボトルの水を飲みほし、大和はされるままに体を横たえた。エネルギー切れを起こした体が空腹も訴えていたが、いまはとにかく休みたい。
「あのね、大和さん。俺は大和さんが望む人になら、大和さんを踏む権利を譲ってもいいと思っているけど、そうじゃないなら拒否するからね」
「?」
 新しい水のボトルとアセトアミノフェンの錠剤を開けながら、ダンテは緩い目元を仄暗くゆがめた。
「大和さんが嫌いだと思っている人に踏まれるのは許さない。もしも誰かが、嫌がる大和さんを齧ったら・・・・・・」
 普段は唇に隠れて見えない白い犬歯が、大和の目の前でニィッと微笑んだ。
「お仕置き、覚悟してね?」
「・・・・・・肝に銘じておきます」
「そこで嬉しそうな顔をするのが大和さんだよねー。お仕置きなのか、ご褒美になっちゃうのか・・・・・・」
 やれやれ、と眉尻を下げるダンテの介助で鎮痛剤を呑み込み、大和は一瞬で眠りに落ちた。そのせいで、近付いてきたダンテの唇が、どこに触れたのかを、ついに知ることはなかった。