ピロートーク


 低い話声が聞こえて、大和の意識はふっと浮上した。TVでもついているのかと思ったが、そんなものはないはずだと目を開ける。
「・・・・・・・・・・・・」
 スマートフォンを片手に、こちらに背を向けて座っているダンテが話しているのは、おそらくイタリア語だろう。大和には何を言っているのかわからないが、ゆっくりとしゃべっているおかげで、最後のお決まりのフレーズを聞き取ることができた。
(お祈り・・・・・・?)
 深いため息とともにスマートフォンが耳元から離れ、ベッドからジーンズに包まれた形のいい尻が離れていく。
「ぉわっ!?・・・・・・大和さん?」
 思わず伸ばした手がベルトを掴み、ダンテがしりもちをついた衝撃でベッドが揺れる。
「ごめんね、起こしちゃった」
「別にいいんです。それより、何処に行こうとしたんですか?」
 肘をついて見上げる大和の髪を梳き払いながら、ダンテはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ラップトップを取りに行こうとしただけだよ。ちょっと、情報が更新されたからね」
「誰か、亡くなったんですか?」
 驚いたように青い目を瞬きながら、ダンテはこくんと頷いた。
「聞こえてた?むこうにいたころの知り合いなんだけど、もう最期だからって。懺悔を聞いてくれる人どころか、生きている人間がいないってさ」
 親指と人差し指を立てた拳をこめかみに当てる仕草で、ダンテの話していた相手が、ついさっき死んだことを大和は悟った。
「敬虔な人間だったんだけどね。穢されたり喰われたりするよりも、人間として生きて、地獄に行くって。最後まで誇り高い男だったよ。声の感じと、後ろの雑音から察するに、もう逃げられる状態じゃなかったんだと思う」
「そんなに発症者が溢れているところが・・・・・・」
 地域によっては壊滅状態とは聞くが、自分たちの手が届かない場所ではどうにもできない。
 ダンテは大和の手が離れたタイミングを逃さず立ち上がり、自分の荷物からノートパソコンを引っ張り出して、軽快にキーを打ち始めた。
 大和もシャツを羽織った肩越しにその手元を覗き込むと、記号やポップアップのついた地図と、ほとんど英語のチャットツールらしきものが、目まぐるしく更新されていた。
「退役はブラフで、実は情報将校だったとか言わないですよね?」
「まさか!これは有志が作っているアプリケーションだよ。ネット掲示板みたいなものだから、情報の偏りが大きいし、TEARSのデータと同じくらい正確とは言えないけど」
 更新が早すぎて大和は目で追うのがやっとだったが、ダンテが書き込んだ後に、追悼メッセージらしきものがちらほらと流れていき、地図の地中海沿岸にある無数の記号のうち、ひとつが変わった。
「よし。これであいつも無駄死にじゃないだろ。Che Dio abbia pieta di voi.(神の御慈悲がありますように)」
 アメン、とダンテは十字を切り、そばで見ていた大和に微笑みかけた。
「どうしたの?俺がお祈りすると変かな?」
「あ・・・・・・いえ、そういうわけでは・・・・・・」
 冷めた目で見ていただろうかと、大和は慌てて視線を彷徨わせ、自分の宗教観を腹の底に押し込んだ。
「ダンテさんが、普段からあまりにも流暢に日本語を話すので、クリスチャンだという可能性に思い至らなかったんです」
「ハハッ。まあ、この情勢で黙示録の悪魔が出現していないんだから、神はいないか、それともまだこの世の終わりではないのかもしれない、って考えるくらいは不信心者だけどね」
 宗教や信条なんて生きるための方便だと、ダンテは言い捨てる。そこから何を学んで何を選ぶのか、自分で考えることが、最も尊い成長であり、誰かの心の平穏を乱さない事を覚えるのが慎ましさだ。だから、自分よりも信心の篤かった知人の冥福を祈っただけだ、と。
「・・・・・・ダンテさんは時々、僕よりずっと年上のようなことを言います」
「そう?偉そうに聞こえたら謝るよ。俺だって結局、俺がやりたいようにしか生きられないからね。いるかどうかもわからないものを、畏れたり怖がったりしていられるほど、暇じゃないんだ。現実は厳しいからねえ」
 ダンテはノートパソコンを片付け、再び大和の隣に戻ってきた。
「はい、お待たせ、寂しがり屋さん。俺は何処にも行かないよ」
「本当ですか?ずっと僕を踏んでくれますか?」
「もちろん。大和さんがもう要らないというまで、踏んであげるよ。急にどうしたの?」
 うちの司令官ほど人を見る目はありませんが、と前置きをして、大和は深い海のように青い目を正面から見つめた。
「おそらくダンテさんは、僕が思っている以上に『ひとりで征ける人』だと思います。あなたの軍人時代のデータを読みましたが、一個小隊くらいはさらっと率いてしまえそうなのに、単独行動が最も効率の良いタイプに見えました。違いますか?」
「よく見つけたね。・・・・・・どうかな、そこまで任せてもらったことはないよ」
「そのようです。ですが、ダンテさんは以前、ご自分の尊厳を守るために戦った時、僕の思い込みでなければ法に頼らなかったようです。体制や法に意義を見出していないというより・・・・・・そもそも、それらを運用する他人を信用していないんじゃないでしょうか」
 優し気な緩い目元はそのままに、緩く弧を描いた唇から犬歯が覗く。やはり彼は、目よりも口元に感情が出るタイプだと、大和は確信した。
「いかがでしょう?」
「あれは聞かなかったことにしてくれたんじゃなかったの?」
「口封じされます?」
「まさか」
 そうだろう。大和に知られても問題がない状況だと判断したから、ダンテはしゃべったのだ。そうでなければ、当たり障りない嘘をついたはずだ。
 大和が見つけた資料は、入隊当時の古い健康診断書に紐付けられた、個人情報ではあるものの、任務の詳細な内容がわかるような機密ではなかった。退役時に破棄されるべき情報だろうが、管轄が違ったのか、それともそんなことに労力を使う余裕がないのか、偶然残っていた。おかげで、大和はそこからダンテの軍歴や参加ミッションを割り出せたのだ。全部イタリア語だったので、マゾ精神に任せてコツコツ作業をしても、何度か心が折れそうになったが。
 そんな大和の苦労を知ってか知らでか、いつもと変わらない穏やかな空気の中で、ダンテはくすくすと笑う。
「あの頃は上官に恵まれなかったんだよ」
「ここまで言っておいて、そんなに限定的なものには思えませんよ。とにかく、僕が言いたいのは、あなたのアンカーはずいぶんと軽量タイプな上に、爪すら碌についていないということです」
 実際は言うほど親しくなかったのかもしれないが、それでも最期に縋ってくるような知人の死にすら、あまり感情が動いたようには見えなかった。『常識と人情のある人間ならこうするだろう』という行動をなぞっているとしたら、まさにその通りに見える。
 何事にも期待しない冷めた感覚と、己の力だけで世間を渡れる才が、ダンテの両足に翼の生えたサンダルとなって、興味の向いた方へ走って行く幼児のように、いつでもどこにでも、ふらっと旅立ってしまえる身軽さを与えている。
「僕は、絶対に放しませんからね。この顔にかけて」
 いまさら大和の顔に傷が付いても、ダンテは大和を捨てたりはしないだろう。それでも、ダンテが好きだという顔が餌になるなら、大和はそれでいいと思うようになった。
「ふっ・・・・・・ふはははっ!それは頼もしいなっ」
 抱きつくようにベッドに押し倒され、指を絡ませるように両手を繋ぎ合わせると、少年のようにはにかんだ笑顔が見下してくる。
「まったく、子供なんだか大人なんだか・・・・・・不思議な人ですね」
「え、俺は大和さんにとって、撫でるのにちょうどいい犬か猫か、そうでなければヌイグルミ扱いなんだと思ってた」
「・・・・・・否定しづらい程度には、ダンテさんの頭をもふっている自覚があります。ですが、本気でそんなことは思っていませんよ」
「ふふふっ、そう?もっと撫でていいよ。撫でられると嬉しいから」
 許可が出たので、大和は柔らかく渦を巻く栗色の頭髪に機械の指を差し込んだ。それだけで無条件に気分が和んでしまい、大和はパブロフの犬かと自分に呆れる。
「はあぁ・・・・・・生き物に触っているという実感でしょうか?蔑まれるのとは、また違った快感を覚えます」
「順調に俺色に染まっているね」
「それはそれで支配されている感じが・・・・・・」
「この程度で主砲をむくむく硬くしないでよ、変態」
「あはぁん・・・・・・」
 温かい体を抱きしめて、ダンテの匂いを深く吸いこむ。頬やこめかみに柔らかな唇の感触と、温かな息を感じて、ゆるゆると神経が弛緩していく。
「俺は、殺されてもいい人しか愛さないよ」
「だんてさん・・・・・・?」
 ぼんやりと持ち上がりかけた瞼が、温かい手のひらで覆われてしまう。中途半端に起きた体が、睡眠を思い出したようで、急速に思考がおぼつかなくなっていく。
「いい夢を・・・・・・」
 大和は自分が温かい物に抱き着いているとわかっていた。ダンテをちゃんと掴まえているから大丈夫。どこにもいかないと・・・・・・。