美味しい君 −4−
「どうしたの?いつも以上に大和が死にそうだわ」
右目が青く、左目が赤い、つぶらな目を心配そうに曇らせるサマンサに、大和は微笑もうとして失敗した。努めていつも以上に真面目な態度で仕事をしていたつもりだが、ひと段落した合間にぺしょりとデスクに崩れ落ちたのを見咎められたらしい。 「・・・・・・フラれそうなんです。というか、もうフラれているような状態で・・・・・・」 「え!?ダンテに?嘘でしょう?」 ダンテを本気で怒らせたか、深く傷つけてしまったと思われるあの嵐の朝、二人分の食事を作った後、ダンテはテーブルにつかず酷い雨の中を帰って行ってしまった。何度も謝ったし、ダンテも「もういい」と言ってくれたが、取り返しのつかない事を言っていたのならば意味がない。それから、電話もメールも無視されていた。何度「おかけになった電話番号は・・・・・・」と機械音声に返されたことか。 首についた痣は服や髪で隠せたが、自分より少し背が高いだけで、荒事には無縁に見えるダンテが、片手だけで成人男性を扼殺できそうな剛力を持っていたことには、正直恐怖を覚えた。あのまま体重をかけられたら、簡単に脛骨を砕かれていただろう。いくらもがいてもびくともしなかったし、壊れはしなかったが、押さえつけられていた義手にしばらく変な感覚が残った。なにより、大和に向けられた怒りと憎悪と侮蔑にまみれた眼差しと、唸り声さえあげそうな剥き出しの牙に、その時は驚くばかりだったが、時間がたつほどに後悔と化して胃を苛んでくる。 「甘えすぎて失礼な発言をしたなんてレベルじゃないです。考えてみれば酷い差別発言ですよ」 「でも、種族的には一般常識だし、そんなことでダンテは怒るかしら?」 首を傾げながらサマンサに見上げられ、レパルスは少し視線を外しながら、ため息交じりに答えた。 「自分の恩人まで侮辱されたと思ったんでしょう」 「ああ、そういうこと。あの人をとっても尊敬していたものね。自分から吸血鬼に成ったくらいだし」 「「え?」」 レパルスと大和から同時に見詰められ、サマンサはきょとんと目を瞬いた。 「え?知らなかった?」 「初耳です、サミィ」 やや困惑した面持ちのレパルスに、サマンサはそうだったかしらと、小さくて可愛らしい唇を尖らせつつ首を傾げた。 「町長さんの影響はあったと思うけど、あの子は自分から望んで、人間でいることを捨てたんだと思うわ。主人の支配を受けているかいないかなんて、そのくらいの違いは私にも判るもの」 「その違いが判るのは、きっとサミィだけですよ。・・・・・・まあ、あのダンテさんならやりかねないですね」 人間に痛めつけられて人外に保護されたという、似通った経歴をもつ友人であったからか、レパルスも理解を示す。 「人間であることを捨てるのは、そんなに簡単なことですか?」 物理的にも精神的にも、人間であるという至って現実的なアイデンティティは、生命と同様に揺らぎようがない。尊厳とはそういうものだ。そう大和には感じるのだが、見下してくるレパルスの冷ややかな眼差しは、呆れてものも言えない、とでも言いたげだ。 「ご自分で考えたらいかがです?さぁ、サミィ。おやつの時間ですよ」 レパルスに促され、サマンサはもろ手を挙げて自分たちの部屋に戻っていく。足取りの軽い事、つい今し方までの大和との会話など、まるで気にしていないようだ。 「ああ、仕事を言い訳にするような勤勉な人間に対して、私が差し出がましく言うことではないと思いますが・・・・・・」 サマンサの後を追うレパルスが脚を止め、ちらりと肩に流れる黒髪の後姿を見やった。 「私が知っているあの頃とは違って、あの人はどこにでも行けますよ」 長いコンパスのゆったりとした足音が遠ざかっていくのを聞き続けることもなく、大和はキャスターのついた椅子から勢いよく立ち上がった。 「言われなくても、よくわかっています・・・・・・!」 ルイスにはまた笑顔で嫌味を言われるかもしれないが、武蔵に早退を宣言しに行くと、意外なことに「そうか」だけで済んだ。 ゆらゆらと揺蕩う意識が、冷たい重力を感じることが多くなってきた。全身にはびこっていた重だるさと骨まで凍るような寒気、喉と胸を中心にした焦げ付くような熱と節々の痛みは、徐々に虚ろな現実に置き換わっている。首筋の凝りや苦しかった呼吸もずいぶん楽になったことだし、どうやらピークは過ぎたらしい。 「・・・・・・?」 冷たい湿り気が顔に当たって、びっくりして目を開ける。窓が開いているのか、空気が動いているのを感じた。少し乾燥しているが、新鮮で少し冷たい夕方の空気が、鼻腔や肺に心地よく広がっていく。喉が渇いた、腹が空いた、そう思えるようになってきたので、かなり回復したようだ。 瞬きをして視線を動かすと、長い睫毛の影を落とした涼やかな顔立ちの青年が覗きこんでいた。長い黒髪の既視感は、遠い記憶にあるものだ。 「やまとさん・・・・・・?」 がらがらにかすれた声を出すと、怒っているような、泣きだしたいような、不思議な顔をされた。 「なにやってるんですか・・・・・・!全然連絡がつかないと思っていたら!」 「ぁー・・・・・・」 そういえばスマホはどこにやっただろうか。その辺に放りっぱなしなら、充電が切れているかもしれない。 ダンテはあの日、頭を冷やすつもりで嵐の中を出歩いたら、体まで冷えて風邪を引いただけだ。あえて言うが、風邪ぐらい引く。馬鹿と言われればそれまでだが、頭に血が上った状態であそこにいて、もっと大和を傷付けたくなかった。 大和はと言えば、まだ合鍵でダンテの部屋に侵入できてほっとしたものの、普段より乱雑な室内でダンテが寝込んでいたので驚いたそうだ。 「大丈夫だよ・・・・・・」 「診断をする医者の前で、『大丈夫』とはいい度胸ですね。その様子では、病院にも行かなかったしょう?このさいですから、全身のメディカルチェックにご案内しましょうか。もちろん、採血もありますよ。隅から隅まで分析させていただいても?」 「ぅえ・・・・・・」 にこぉっと微笑まれて、ダンテは大和さん怖い大和さん怖いと心の中で呟く。 「本当に・・・・・・馬鹿みたいです」 ペタンと座り込んで呟く大和の顔が、ダンテからは見えない。 「うーん、心配かけてごめんね?」 「本当ですよ。いえ、そういう事ではなくて・・・・・・」 額にかかる髪をかきあげながら、大和は苦笑いを溢す。渡されたスポーツドリンクは、冷蔵庫から出されたばかりのようで冷たかったが、乾いた喉には染み渡った。ストックは飲んでしまったはずだから、大和が近所の自販機で買ってきてくれたものだろう。 「もう・・・・・・ダメかと思いました。ダンテさんにあんな目で見られるのも、首を一掴みにされるのも、驚いてしまって・・・・・・」 「あ、ぅ・・・・・・ごめんね。乱暴なことをした」 「いいんです。・・・・・・ダンテさんが大事な決断をするときにそばにいなかった僕に、揶揄う資格なんてありません。すみませんでした」 生真面目な顔で謝る大和に、ダンテは感情のコントロールに難儀する自分を恥ずかしく思いながら、もう謝らないでほしいと伝えた。敬愛に値する人間もいる、そうダンテに思わせてくれたのは、大和で二人目だ。 「そうだ、何か食べられます?レトルトのおかゆくらいなら、きっと僕にも作れるはずです!」 「待って。俺が、自分で作るから・・・・・・!」 「そうですか?」 万が一、ガスコンロか電子レンジのどちらかが爆発してからでは遅い。 ダンテはのそのそと起き上がり、うつしてはいけないからと大和に帰宅を促した。スマホはランドリーバスケットの中で洗濯物と一緒に埋まっており、充電器に差し込まれたのを確認して、やっと大和は腰を上げた。 「それじゃあ、お大事に。・・・・・・早く元気になって、僕を踏んでください」 「そうさせてもらうよ。大和さんを踏んであげないと、美味い血にもありつけないからね」 にこりと笑ってくれる大和に、ダンテもいつものように微笑んで送り出した。 「部外者のくせに、いちいちサミィに心労をかけないで頂けますか?」 「サマンサさんが優しいだけだよ。愛想もないレパルスと違ってなー」 誰のおかげで大和がダンテのアパートを訪ねたのか知らない巻き毛頭を、青筋を浮かべたレパルスがむんずと掴んだ。 「せっかく生えた髪を、またハゲ散らかしたいようですね!?」 「いだだだだだだ!!!放せ!!!顔だけ綺麗なゴリラ!!!!」 「ついでに、舌も引っこ抜いておきましょうか。もう一度、静かなダンテさんになりますよ!静かなることフジツボのごとしです!!」 「いーっだ!てめぇのアホ毛引っこ抜かれてぇか!!索敵でもしてんのか、この触覚ゴリラ!!」 「触らないでください、風邪もひくような成りそこないの中途半端吸血鬼!!汚らわしいペテン師の胡散くささがうつります!!!もう一度そのお気楽天パ頭を焼け野原にしますよ!!」 「なりそこない言うな!気にしてんだよ、ばーかばーか!!」 大の男たちがぎゃあぎゃあと、実に喧しい。 「いいですねぇ・・・・・・」 「どうしたの?」 二人を止めようとしていたサマンサだが、大和が眺めているので立ち止まってしまった。 「だって、ダンテさんは僕に、あんな風に砕けた話し方してくれませんよ?」 「レパルスが羨ましいの?」 「うら・・・・・・そうかもしれません。もっと乱暴に罵倒して欲しいんです」 大和の嗜好における精神は、厳しく吹き荒れる北風の中では、「もっと激しく!」と悦び、全裸で踊り狂う変態仕様の鋼鉄製だが、燦燦と寿ぎまくる穏やかな太陽のもとでは、冷蔵庫に逃げ遅れて甲板で溶けるゼリーかバターと化す。太陽に北風役を期待するのは、なかなか難しい。 「うーん、私が言うのも何だけど、仕方がないんじゃないかしら?」 「どうしてですか?」 「だって、ヤマトは 根源的に、同等の扱いではない。いままでになかったその視点に、大和は目から鱗が落ちるような気がした。ぱぁっと頬に血の気が集まり、耳まで熱い。ズクズクとした粘度のある熱が、いけないとは思いつつも体の奥から股間に集まってしまう。 ダンテが言っていた、「好きだという気持ちと同等かそれ以上に、食べたくなる」という意味を、真相を、やっと理解できた。彼はドルチェと言ったが、彼の種族にとって人間は、そもそも勝手に放牧されている半野生の家畜に相当するのではないか。たくさんいる羊や豚、その中のお気に入りの一頭が大和、というだけなのだ。 「ぁ・・・・・・ありがとうございます、サマンサさん。新しいプレイシチュ・・・・・・いえ、見地が得られました」 「どういたしまして?」 サマンサは不思議そうに首を傾げているが、大和は大満足だった。うきうきと心が弾み、体がぽかぽかと温かい。そんなこと思っていない、とダンテは言いそうだが、大和はこの見方を大変気に入った。 「はぁ、直接豚だと罵ってもらえませんかねえ」 その呟きは、大和の口の中だけで消えてしまい、賑やかな周囲には届かなかった。 |