秘密の夜花
楽しみにしていた予定が無くなって、大和は手元のスマートフォンを見つめたまま、少しぼんやりしていた。いや、予定というのも言い過ぎだろうか。ついさっき思い立って決めたことを、先方に都合がつかないと断られてしまったのだから。
(残念・・・・・・) いままで、急に誘っても断られたことはなかった。だから、すっかり「いいよ」という返事が返ってくると思い込んでいたのだ。しかも、今回はそういうことをしない、初めての機会だったので、余計に・・・・・・。 ごめんなさい、今日は本当に無理、ごめんなさい、と、泣き顔の絵文字大盛の返信がきているので、本当にどうにも都合がつかないのだろう。 (一緒に花火見たかったんですけど・・・・・・) もっと早くに言っておけばよかったと後悔するが、後の祭りだ。 「どうした、大和?便秘か?それとも、デートでも断られたか?」 「デートの方です」 東雲赤城と花火大会に行くらしい瀬良長門が、ビックリした顔で固まっている前を、大和はむすっとした顔のまま通り過ぎていった。他人に言われると、余計に腹が立つ。 白衣を脱いで外出着に着替えると、大和は人波に逆らってぶらぶらと歩いた。夏のじめっとした湿気が首や脇にまとわりつく。黄昏時のグラデーションがかかる陰鬱な空は、少し雲が多いようだ。 「あら、小鳥遊さんじゃない?」 「あ、本当だ!おはよー!」 声を掛けられて視線を巡らせると、そこは通い慣れた繁華街の一角で、小奇麗な格好の女性が二人、こちらに笑顔で手を振っていた。 「こんばんは。ご出勤ですか?」 「そうなのー。べにちゃんと一緒に花火見に行きたかったのにー!」 「私にも鹿ノ子ちゃんにも、常連さんから急に御指名入っちゃったんです」 頬を膨らませる鹿ノ子と、仕方なさそうに微笑む紅華は、大和が年パスプラチナ会員カードを持っているSMクラブの女王様だ。 「大和くん、最近ご無沙汰じゃない?ご主人様できたの?」 「えっ・・・・・・」 そういうわけでは・・・・・・などと、しどろもどろになる大和を、二人はあらあらまあまあと、ニヤニヤしながら眺めてくる。 「パートナーさんは 「ヒールも好きだけど鋲底も大好きって知っているのかな?」 「おかしなマウントを取らないでください。あの人はサドじゃありませんよ」 大和の言葉に、二人の目が真ん丸になる。そんなにショッキングなことを言っただろうか。 「素人さん!?よくやり過ぎないで・・・・・・」 「あ、でも小鳥遊さん、叩き甲斐のある頑丈さだから・・・・・・」 「それもそうだ。あたし大和くんで鞭三本は折ったもんね・・・・・・」 「何の話です」 往来でなんて話を始めるのかと大和は頬が熱くなったが、女王様二人はおほほほと笑ってごまかす。 「経験が浅いと、やり過ぎちゃうのよ。やる方もやられる方も、ガチで怪我しちゃうの」 「でも、小鳥遊さんは今のところ、そうなっていないのだから、よい方に巡り合ったんじゃありません?なにか武術をたしなまれている方?」 「そういうことは聞いていませんが・・・・・・気遣いの厚い方だとは思いますよ」 「そうですか・・・・・・私たちの経験上、手加減ができるほど殴り慣れているか、急所がわかるほど殴られ慣れた方だと思いますよ」 大和にとってはどちらでも構わないのだが、たしかに鹿ノ子たちに打たれた場合と、そうでない場合とでは、身体へのダメージの後残りが違いすぎる。もちろん、プロにやってもらった方が、大和の本業に影響が出ないのは明白だ。そして今のところ、お気に入りの遊び相手も、大和に自重を促すことはあっても、大和を困らせるような怪我をさせたことはない。 「普通の人が理性的に殴るって、結構難しいはずよ。まあ、飽きたら戻っていらっしゃいな。サービスしてあげるから」 「御指名、お待ちしていますわ〜」 盛大な投げキッスをふりまくと、紅華と鹿ノ子は颯爽とした足取りで、彼女らの職場に向かっていった。 大和も暇なので、久しぶりに彼女たちを追うこともできた。関節が外れそうなほど締めあげられ、意識を保てるギリギリまで呼吸を絞られ、顔を擦りつけるように床に踏みつけられ、肌が裂けそうなほど叩かれ続けたい。 しかし、普段ならそのまま気持ちよくなってしまう思考に、一陣の冷たい風が抜けていった。 (殴られ慣れた・・・・・・?) 穏やかで緩い空気を持つ大和の遊び相手は、紅華が言ったようなタイプには見えない。大和は殴られ慣れているし、大和の職場には、殴り慣れた連中がたくさんいる。彼は、そのどちらかに属するというのか。 (持久戦には強そうですけど) 時折見せる昏い笑みは、逃げ疲れた獲物を一撃で仕留める捕食動物のようだと思う。力のままに進むより、周到に準備するタイプだろう。 確かなことは何も知らない。今日会えれば、少しは互いのことを知れたかもしれないのに、と、また最初の気分に戻ってしまった。 ドンドン、と空気が鳴った。花火大会が始まったのだろう。暗くなってきた空を見上げかけた大和は、気のせいかと思ったが、震えるスマートフォンを手にすることができた。 「はい、大和です」 『出先か?すまん。確認したい書類が出てきた』 「わかりました、武蔵さん。すぐ戻りますよ」 巖のような司令官の声に返すと、大和は踵を返して、自分の職場へと戻っていった。 スマートフォンの画面を見つめたまま、大和は不満を眉間と口元に力を込めることで抑えていた・・・・・・が、抑えきれずに通話にした。 「なんで駄目なんですか!?」 『ひぃっ、本当にだめなのごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!当日の俺は腹と頭が痛くなる予定です!!!!』 後日、別の花火大会に誘ったら、このありさまである。 「腹と頭が痛いなら、医者が必要ですね!?」 『ああああああっ!!』 らしくもなく墓穴を掘った電話の相手は、めそめそと情けない声で降参した。 『打ち上げ花火とか苦手なんだよ・・・・・・ああいう大きい音が、昔から苦手で・・・・・・』 「へ?」 『そのせいで、 もう勘弁して〜と悲鳴を上げる遊び相手に、大和は呆然と手の中のスマートフォンを見た。打ち上げ花火の音が駄目なら、砲撃音も駄目だろう。一応軍人だったことがあるというのも、意外だった。 「・・・・・・そうだったんですね」 『うぅ、恥ずかしいし格好悪いから、大和さんには知られたくなかったのにぃ』 せっかく育てた俺のイメージが・・・・・・と嘆く相手に、大和は含み笑いの声が漏れないよう注意しながら、折衷案を提示した。 「わかりました。外出はやめましょう。その代り、僕がダンテさんの部屋に行きます」 『・・・・・・・・・・・・え?』 電話の向こうでぎゃあぎゃあとなにか喚き声が聞こえたが、大和は聞こえないふりをして押し切った。 当日、草木が生い茂った小さな庭があるだけで味もそっけもない外観のアパートを訪ねた大和は、半泣きで抱き着いてくる男を宥める羽目になったのだが・・・・・・。 「恥ずかしくないですよ。一人でいるより、心強いと思いませんか?」 「ううぅっ。大和さんが男前すぎて惚れ直す」 「そうでしょう」 大和はタオルケットをかぶってプルプル震える背や栗色の巻き毛頭を撫でながら、大きな小動物だと思ったが、ひとまず口を噤んでおいた。 遠くから、ぼんぼん、どんどん、と空気が震え、重く頭の中に響いてくる。もっと近づけば、音は耳を聾し、胸や腹にまで響いてくるだろう。 「おしゃべりしていれば、あんまり聞こえないですよ。差し障りのない範囲でいいので、ダンテさんのことを聞いてもいいですか?」 そうして大和は、ダンテにはすでに身寄りがない事、好きな食べ物はチーズや白身魚を使った料理、砲撃音さえなければ部隊でもそこそこの成績はあったこと、そして、大和より三つ年下で、二週間後の八月二十日が誕生日だということを知ることができた。 |