はじめての
カシュカシュカシュカシュ・・・・・・と、ボウルの中で粘度のある薄黄色い液体が攪拌されている。小さな手が持つ泡だて器は大きく、細腕が抱えたボウルはさらに大きい。
カシュカシュカシュカシュ・・・・・・、その様子を、ダンテはそばで見ているだけで、手伝おうとはしない。腕まくりをしてエプロンを付けた作業者が、ふうふうと息切れをして、泡だて器の動きが鈍くなってくるのを、椅子に座ってのんびりと眺めている。 「うぅぅ・・・・・・腕が痛い」 「がんばるね、羽黒くん」 「もちろんだ!」 キリッとダンテを見上げた頬は上気し、小豆色味を帯びた黒い大きな瞳はキラキラと輝いている。邪魔にならないよう結われた長い黒髪の先だけが、エレガントにくるりと巻いて可愛らしい。幼い中にも涼やかな印象の面影があるのは、小鳥遊羽黒が小鳥遊大和の年の離れた弟だからだ。 「ちゃんと僕の『はじめて』をダンテくんにあげないと、ここから出られないではないか」 「うんうん」 そのセリフを大和が聞いたらなんて言うか・・・・・・とダンテは乾いた笑いが出たが、「お互いに『はじめて』をあげないと出られない部屋」に閉じ込められているので、どうしようもない。 当然、長く生きている分、ダンテの方に『はじめて』が少なく、小鳥遊財閥次期当主の羽黒は、勝手に『はじめて』をしてしまうと不味いものがあるのではないかと躊躇する。 そこで、取り出したるは、新鮮玉子とサラダオイル。羽黒が好きなマヨネーズを手作りしてみようということになり、ダンテ先生の家庭科教室が始まったわけだ。ダンテが誰かにマヨネーズの作り方を教えたことは今までにないし、羽黒も自分でマヨネーズを作って誰かにあげたことがない。つまり、お互いに『はじめて』をあげることになる。 「いいぞいいぞ。分離しないで、ちゃんとマヨになってきてる。羽黒くん、上手だよ」 ちょろちょろと少しだけサラダオイルを足し、さらにがんばれがんばれと応援する。 「マヨネーズ工場の人たちも、毎日こうやって混ぜているのだろうか。大変な力仕事だ」 「うぅ〜ん、工場では機械がやってくれるんじゃないかなぁ」 昔の大規模手工業のように、大勢のスタッフが一様に卵黄とサラダオイルをかき混ぜているのを想像して、ダンテは笑いをこらえる。流れ作業で割られていく玉子や、巨大な攪拌タンク、そしてチューブに封入されていく様子などに、羽黒は目を輝かせて見入るに違いない。 「ここにも、ハンドミキサーがあればよかったんだけどな」 残念ながら、そこまでのサービスはなかった。 「羽黒くんは、工場見学とか行ったことないの?」 「まだないな。マヨネーズ工場は、ぜひ見学の候補に入れなくては・・・・・・」 学校の送り迎えにもSPがつくような身分であるから、普通のお子様のようにはいかないのかもしれない。しかし、見たことのある工場が、自分の家が経営している医薬品会社の工場や研究所だけでは、ちょっと物足りないだろう。 「そうだね。連れていってもらえるといいね」 「うむ」 またカシュカシュと、羽黒は根気よく泡だて器を動かしたが、いい加減疲れたのか、眉間に小さなしわが寄ってきている。 「うぅ〜〜っ」 「シニョール、お困りですか?」 「いや!ここで投げだしたら、『はじめて』ではなくなってしまう。最後まで僕がやる」 子供らしからぬ責任感の強い発言だが、そこが危くも感じる。大和さんに似てるなぁと思いながら、ダンテは説得を試みた。 「一人でやり抜くのもいいけど、俺が手伝うのは投げ出すことにはならないんじゃないかな。一緒に作った、も『はじめて』になるでしょ?」 「い、一緒に?」 「うんうん」 大丈夫大丈夫、と両手を出すダンテに、羽黒はおずおずとボウルと泡だて器を渡した。 「うん、いい感じ。羽黒くんが頑張ってかき混ぜたからね、きっと美味しいマヨになるよ。腕痛いでしょ?ちょっと休んでてね。最後の仕上げは、ちゃんと羽黒くんにやってもらうから」 「わかった」 ぷらぷらと腕を振る羽黒に微笑んで、ダンテはシャカシャカと攪拌を続けた。レモン汁やサラダオイルを足しつつ、シャカシャカシャカシャカと泡だて器を動かし続ける。 「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ。羽黒くんのマヨネーズ、美味しくなぁれ」 「ふふっ、ダンテくんは変だな」 「そうかな?」 「うむ、とっても変だ」 「実はよく言われるよ」 くすくすと笑う羽黒は、厳しい大人たちに囲まれ、自分の将来を覚悟しているのだろう。それならそれで、たまには道化た大人も見て笑う方が、バランスが取れていいというものだ。 「さて、そろそろいいかな」 材料はすべて投入し、攪拌も充分にすんだ。 「ここから大事なところだ。味見をどうぞ」 「うん・・・・・・」 スプーンですくって、ひとくち。大きな目がパチパチ、と瞬かれ、ついでにっこりと微笑む。ダンテも味見をして、完成だと心の中で頷く。 「いかがでしょう、シニョール?俺としては、もうちょっと混ぜた方が、より滑らかになると思うんだけど」 「うむ、とっても美味しいけど、もうちょっと滑らかな方がいい」 「酸っぱくはない?」 「平気だ」 羽黒はダンテからボウルを受け取り、自分なりに最後の攪拌をして、完成だと目を輝かせた。 「Congratulazioni!それじゃ、帰ろうか」 「うむ。ありがとう、ダンテくん!」 「どういたしまして」 マヨネーズの入ったボウルを抱えた羽黒は、足取り軽く鍵の開いたドアから出ていく。ダンテもそれを追って、臨時の家庭科室を後にした。 ―完― |