かさこそ、ぱたんぺたん、という、布がこすれるわずかな音に、イーヴァルは椅子に座ったまま振り向いた。
 外は雨が降って、時折強い風が吹く音がする。そんな雨音に紛れてしまうほど小さな音でも、イーヴァルの耳には自然音と人工音の違いははっきりと判る。
 壁を伝う音を最後になにも聞こえなくなったので、イーヴァルは読みかけの本を置いて席を立ち、自室のドアを開いた。
「どうした、眠れないのか?」
 そこには、クッションを抱きしめて立つ、寝間着姿のイグナーツがいた。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・入れ」
 ぱっと嬉しそうに頬を緩めて、ころころした体型の幼児がイーヴァルの部屋に入ってくる。イーヴァルが見下ろす先で、柔らかな銀髪が寝癖で一束跳ねている。
「風の音が怖かったか?」
「ううん」
 クッションを抱きしめたまま、イグナーツはふるふると頭を振る。
 イーヴァルはひとつため息をつくと、イグナーツを自分のベッドに座らせ、自身もその隣に座った。
「ぼっちゃん、まだおきてる?」
「俺は起きている時間だからな。でも、お前は寝ろ」
「・・・・・・・・・・・・」
 不服そうに柔らかな頬が膨らんだが、イーヴァルの指先が左右から押し潰したので、尖った唇からぶひゅっと変な音が出た。
「クククッ」
「むぅ〜!」
「それで、どうした?雨風の音が怖くないのなら、黙って寝ていろ」
「やだ。さみしいもん」
 またぷくっと頬を膨らませるイグナーツに、イーヴァルは目をしばたいて首を傾げた。
「・・・・・・寂しい?」
「もっと、ぼっちゃんといっしょにいたい!いつもいないんだもん」
「そりゃあ・・・・・・」
 学校に行っているし、と口の中でもごもごと続け、イーヴァルは困ったなと頭を掻く。
 イーヴァルはトランクィッスルの学校へ通っており、住まいも寮暮らしだ。いまは夏季休暇で実家である城に帰ってきているが、一ヶ月後には、また寮に戻らねばならない。
 死んだ祖父に引き取られていたイグナーツは、現在はイーヴァルが保護者ということになっているが、実際はイーヴァルの実家で養育されている。保護者の名義が変わっただけで、生活自体は召使たちがいるので祖父の生前とあまり変わりないが、いつも城にいた祖父とは違い、普段城にいないイーヴァルは、なかなかイグナーツに構ってやれないのが現状だ。
「ミニね、おべんきょうしたい。そうすれば、ぼっちゃんとおなじがっこうに、いけるでしょ?」
「まぁ・・・・・・そうだな」
 イグナーツの一人称に、イーヴァルは眉を顰める。父である伯爵が、イグナーツを「ミニちゃん」などと呼ぶものだから、移ってしまったのだろう。早々になんとか矯正させたいが、やはり日常側にいないイーヴァルには分が悪い。
「ミニね、ぼっちゃんといっしょにいたいの」
 いつも少し潤んでいる大きな金色の目が、まっすぐにイーヴァルを見上げたが、なぜかすぐに下を向いてしまった。
「・・・・・・・・・・・・」
「どうした?」
「さみしいの。・・・・・・おしろには、いたくないの」
「何かあったのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 イグナーツはそれきり黙ってしまい、イーヴァルの目が険しくなる。
 男の泣き女というイグナーツは、かなりレアな存在だが、それゆえに白眼視されやすい傾向がある。それはこの城の中でも例外ではなく、先代の伯爵がいたころは抑えられていたものが、徐々に表面化しているのかもしれない。誰かに意地悪をされているようであれば、イーヴァルがなんとかしてやらねばならないが、巧妙な嫌がらせでは、幼児では上手く言葉で説明できないだろう。
「わかった。お前が過ごしやすい場所を作ることにする。それに、早く俺と一緒の学校に行けるよう、勉強を教えてもらえるようにする」
「ほんと!?」
 キラキラと目を輝かせるイグナーツに、イーヴァルは本当だと頷く。
「明日から、色々考えよう。だから、今日はもう寝ろ」
「・・・・・・ここにいちゃ、だめ?」
「かまわん」
「えへへ。ありがとう」
 イグナーツをベッドの中へ追いやると、イーヴァルも隣に寝転んで、これ以上寝癖が酷くならないように撫でてやった。
「ぼっちゃん、だいすき!」
「当たり前だ。俺はお前の主人なんだからな」
「うん!」
 安心したのか、すぐに健やかな寝息を立て始めたイグナーツの寝顔をしばらく眺め、イーヴァルは静かに起き上がった。
(・・・・・・ぶっころす)
 イグナーツに悲しい顔をさせた者が、この城にいる。それは、イーヴァルにとって許しがたい事だった。
(忙しい夏季休暇になるな)
 窓の外は、いまだに風雨が激しく暴れていた。