魂喰らいの錬金術師



 安全なぬるま湯に浸かり、とぷりとぷりと揺れている。
 柔らかな隣人にうずもれ、抱きしめられる。
 ここは天国に等しい。
 何も考えなくていい。
 かつて何者であったのかも、何をなした者であったのかも、問題にならない。

 後悔も、悲哀も、怒りも、寂しさも、苦痛も、不安も
 露に溶けて、消えていく。

 尊ばれる愛情さえも、狂気となりうるのだから
 温もりの中に忘れてしまってかまわない。

 そう。
 最後には、みんなひとつになるのだから。

 ひとつになって、きえるのだから



 学校の長期休みを利用して、イグナーツはレルシュとアゼルと共に、ホルトゥス州外にやってきた。
 後見人のミルド伯爵から、両親……というより、主に人間だった父親の遺産である、家屋敷の権利書を受領したので、その確認のためだ。
「いまは人に貸してるんだろ?」
「そう。放っておくと、すぐに傷んじゃうからね」
 オフロード車のハンドルを握るレルシュの隣で、イグナーツは書類の上に地図を広げてナビゲーションをする。道路は整備されているが、まわりは閑静な林が広がっており、その向こうには畑や川があるようだ。
「古い家だし、俺が成人するまでにインフラや家電も進化するだろうから、家賃を安くするかわりに、家の中を自由に弄っていいことにしているんだって」
「なるほど。それに飛びついたのが、錬金術師ってわけか」
「有名な人らしいよ?」
 イグナーツは賃貸契約書に書かれた、「Sakaki Ichijou」というサインを見詰める。イグナーツも調べてみたところ、たしかに錬金術師として名があるようで、生活に役立つ発明や発見をする研究者や、既製品を大量に作る生産者というより、貴重な一点物を作ってくれる職人らしい。それだけ腕がいいということなのだろうが、イーヴァルから聞いた噂によると、人嫌いなのか商売を含めても交友関係が少なく、だいぶ偏屈な人物のようだ。なぜか竜族の長とは知り合いらしいと聞いて驚いたが、竜族は錬金術に使う生体素材の宝庫だ。さもありなん。
「あの家だね」
 地図と見比べてイグナーツが指差したのは、ぽつりぽつりと庭付きの家が点在する中のひとつで、赤味のある壁に濃いブルーグレーの屋根をした、ルネサンス調の屋敷だった。幾何学的な様相なのに、どこかファンタジックな雰囲気があるのは、イグナーツの先入観だろうか。
「ふーん。けっこう立派な家だな」
「泣き女が憑りつくような家だから、それなりに由緒正しい家柄だったんじゃない? 知らないけど」
 自分の両親に関して、ほとんど情報を持っていないイグナーツであった。赤ん坊のイグナーツを引き取った先代ミルド伯爵も、そこまで詳しくは調べなかったようだ。
「ふわぁ〜ぁ。着いたかぁ?」
 整った顔立ちを歪ませるように大口を開けてあくびをしながら、アゼルが後部座席から顔を覗かせる。
「着いたよ」
「よく寝ていたな」
「んふっ、道順は寝ながらでも覚えたから、帰りの運転は交代してやるって。そんじゃま、行ってみますか」
 市道から門に続く小道に乗り入れて停まると、三人は車から降りてポーチへと進んだ。
 庭もよく手入れされているようで、数本の庭木以外は低い背丈に抑えられた植物で整えられ、裏手へ続く芝生にもよく陽が当たっていた。家の古さのわりに、意外と陰気なところが少ない。ただ、妙なところはあった。
「……静かだな」
 レルシュがぽつりとつぶやき、わずかに視線が鋭さを増したが、特に危険はないと頷いた。番犬やペットの類はいないようだが、それでも人が住んでいるのかと疑いたくなるような静けさに、レルシュの耳と鼻が少々の違和感を訴えたようだった。
「客を選ぶ偏屈者って噂は、本当かもな」
 レルシュに倣って囁いたアゼルは皮肉気な微笑を浮かべたが、彼にかかれば多少気難しい人間でも篭絡は易い。
 イグナーツは意を決してチャイムを鳴らした。
「ごめんくぁ……っひ!?」
 言い終わる前にがちゃっと扉が開いたので、イグナーツは思わず仰け反ってしまった。物音も気配もさせずに、扉一枚の向こうでスタンバっていたとしか思えない。
「はい」
 そこに立っていたのは、長い赤毛をおさげにして両肩に垂らした、二十歳前後の娘だった。ロングスカートのワンピースは、質素なデザインだが、しっかりとした生地と縫製で、ハウスメイドに着せるには上等だ。ふっくらとした白い頬はまろやかで、ぱっちりとした大きな目は濃い黄金色。しかし、その表情は微笑を浮かべながらも、まるで生気を感じられない。目の前の娘は、生きていなかった。
「「「……え?」」」
 それがわかる三人が、そろって固まってしまったのも、無理なからぬことだろう。
「不死族か?」
「違うと思う」
「でも可愛いじゃーん。えっと、ここサカキ・イチジョウさんの家であってる? こっち、家主のイグナーツ・ファーネ」
 身を乗り出したアゼルに、娘はぱちりと瞬きをして、コクリと頷いた。
「はい、主よりうかがっております。どうぞ、お入りになってください」
「お、お邪魔します」
 大きく開いた扉の向こうへ、イグナーツは足を踏み入れていった。

 おそらくはリビングとして造られていただろう広々とした空間は、現在は応接室、あるいは商談室として使われているようだ。綺麗に内装を施されて古めかしさはなく、掃除も行き届いているが、生活感のない殺風景さは否めない。
 ソファに並んで座ったイグナーツたちの前のローテーブルに、迎え入れてくれた娘が紅茶の入った茶器を置いていく。
「待たせたな」
 足音が観葉植物とパーテンションを回り込み、商談室に入ってきたのは、およそ三十歳位の男だった。イグナーツが赤ん坊の頃にこの家を借り始めたのだとしたら、見かけの年齢には到底合わない若さだ。半袖のポロシャツにスラックス、足元はスニーカーというさっぱりした服装は、錬金術師という怪しげなイメージからは程遠い。
「俺が、一条榊だ。……はじめまして」
 付け足されたような挨拶だが、それを不思議と思わせないほどに、サカキは不愛想な男だった。低くかすれた声に好意的な明るさはなく、平凡な顔立ちの中にある琥珀色の目にも、事務手続きをこなすために人に会う面倒くささを隠しているのか、特にこれといった表情がない。背は高いとは言えず、どちらかと言えば華奢に見えるが、東洋人だと思えば不思議はない。目立つのは、鳥の巣のようにもさもさとした、濃い緑色の巻き毛頭くらいだろうか。
「あ……えっと、イグナーツ・ファーネです。はじめまして。この度、伯爵さまからこの土地と家屋の権利と管理を戻されたので、ご挨拶に伺いました」
 軽い握手を交わして、イグナーツは同行者のレルシュとアゼルを紹介した。ただの友人が付いてきたのではなく、護衛でもあることに、サカキは納得して頷いた。
「そうか、当代の手から離れて……先代の孫の手先になったんだったな」
「手先……」
 あんまりな言い方にイグナーツは唖然としたが、サカキの方は特に悪気がある様子はなく、事実を事実として端的に表現しただけのようだ。
「契約内容は、ミルド家と交わしていた物と同じで変わらないか」
「賃貸契約としては、いままで通りで変わりません。ただ、これは俺からの個人的なお願いなんですが、今後俺の要請があった時に、この家に匿ってもらうことを了承してほしいんです」
 サカキの目が眇められ、そうするといっそう気難しそうな表情になる。イグナーツは続けた。
「理由は、俺がレアだからです。身を護る手段は持つつもりですが、俺はバンシーにしては物理的な攻撃が通り、人間にしては不死族や霊に対する攻撃が通ってしまいます。不測の事態に備えて、逃げ込める場所を複数用意しておかなくてはならないんです」
 イグナーツは人間と泣き女とのハーフだ。しかも、男である。その希少さを知らないサカキではないはずだ。
「わかった。その対価は?」
「残念ながら、俺の『バンシーの涙』や『緑の霊衣』は、純粋なバンシーの物に比べて、質が良いとは言えません。素材収集を請け負うにしても、サカキさんが扱うような高品質な珍品を、俺が獲ってくることができるとは思えません」
 イグナーツの存在自体がレアなだけで、本人の能力が高いかどうかは別問題だ。
「そこで、いままではサカキさんが費用を負担していた、この屋敷の保全や基本的な設備の交換にかかる費用を、こちらが受け持ちます。もちろん、家賃はそのままですし、修繕費の積み立てなどの上乗せもありません」
「……ふん、妥当なところだな」
 自分の価値と能力を冷静に見極め、イグナーツとサカキの双方に共通する価値で解決しようとした結果を、サカキは受け入れてくれた。
 イグナーツとサカキは書面を交わし、双方の納得を得ての契約更新を確認した。
「早速ですが、老朽化しているところや、不便を感じているところはありませんか?」
「いや、いまのところ大丈夫だ。……ただ、建物自体が年代物だからな。引き渡されてから大規模な手入れはしていないし、雨漏りなどはないが、一度専門家に総点検してもらった方がいいかもしれん。予定がたったら連絡をくれ」
「わかりました」
 サカキは人嫌いな偏屈者という前評判を聞いていたが、煩雑で事務的なことでも、利益につながることに関してはすんなり話が通じることに、イグナーツはほっとしていた。
「……なんだ?」
「あ、いえ……。俺が赤ん坊のころからここに住んでいる錬金術師と聞いていたのに、意外とお若かったので、驚いたんです」
「ああ」
 面倒くさがりで話を聞かない頑固な老人だったら困ると身構えながら来たとは言えないイグナーツに、サカキは何でもない事のように爆弾を炸裂させた。
「俺は魂喰らいソウルイーターだからな。いままでに喰った分だけでも、あと百年は寿命があるはずだ」
「は……?」
 それは真祖吸血鬼と並んで凶悪と名高い、人間から成ることがある不死族だった。
「もう歳なんか数えていないが、五百年前のレコンキスタや大航海時代をリアタイしているってことは、それだけ爺だ。老人は労われよ、ガキンチョども」
 愕然としているイグナーツたち三人を前に、サカキは意外と悪戯っぽく、ふんと鼻で笑った。


「さて、少し片づけておかないとな」
 イグナーツたちが帰ったあと、サカキは主に使っている二階へ上がりながらぼやいた。
 一階にはダイニングキッチンと浴室を含めた水回りと商談室の他は、メイドのロサ・ルイーナの居室と物置があるだけ。二階はサカキの寝室以外は、ほぼ研究室と素材倉庫になっている。建物診断の業者が入るのに、貴重な品々を出しっぱなしにできないし、このさいだから色々整理処分して、客室をひとつ作ろうと考える。
「ロサ、手伝ってくれ」
「かしこまりました」
 書籍や研究ファイルが詰まった重い箱を軽々と持ち上げるハウスメイドは、ゴーレムやホムンクルスではなく、精巧なオートマタだ。彼女を造った人形師もサカキは喰らっており、遺産としてもらいはしたが、彼女の創造主ほどオートマタの知識がないので、メンテナンスにはいつも気を使っていた。
「あぁ、賃貸契約書は手元に置いておかないとな」
 封筒にしまわれた一式を、それとわかるようにファイルしておく。一緒にファイルされている重要書類の中には、複数の身分証明書も入っていたが、すでに黄ばんで文字も消えかけたそれらのほとんどは、もう使えなくなっていた。
(トロフィーだと思われるかもな)
 サカキが魂を喰らった彼らが存在した証は、人間からすれば悪趣味な収集癖と嫌悪されることだろう。だがサカキは、自分の理性と記憶の為に、それらを手放せずにいた。
 サカキは自分の出自を、すでに忘れてしまっていた。「一条榊」という名前すら、ずいぶん前に魂を喰らった中の一人から受け継いだものだ。
 ただ、好き好んで魂喰らいという異形になったわけではないことは、覚えていた。サカキはいつだって、乞われた人間の魂だけを喰らってきた。望みを絶たれ、ただ無気力に死を待つか、自ら死ぬかという選択しかなくなった人間が、最後にすがったのがサカキだった。
 最近は腰を落ち着けて錬金術師などやっているが、サカキは基本的に、自分の中で融けて混ざり合う魂たちを消化しながら人の世をさすらってきた。そして、これからもそれは変わらないだろう。
 喰ってくれと乞う孤独な人間が、いなくなるまで。