新学期前


 古く広大な城の一室、影と闇が家具を彩るこの空間には、荘厳で静かな、青白い月明かりが良く似合う。
 その巨大な老人は、絨毯に跪いた影の薄い女たちを見下ろし、深いため息をついた。その吐息は氷のように冷たかったが、巌がこすれるような重く深い声音は、慈悲にあふれていた。
「わかった。わしが預かろう」
「おお・・・・・・ありがとうございます、伯爵様。なんと、御礼のしようもございません」
 一層深く頭を垂れた女たちの中から、一人の女が進み出て、その腕に抱いたものを、老人の執事に手渡した。
「・・・・・・」
 質素なおくるみの中には、まだ産まれたてと言っていい赤ん坊が眠っていた。
 執事が抱いた赤子をのぞき込み、老人は目を細めた。
「ふむ、たしかに赤き血の匂いがする。業の深い生まれとなったが、生まれ落ちたことこそ運命よ。わしの力が及ぶ限り、保護してやろう」
 老人が赤ん坊に手を伸ばすと、その異様さに危機を覚えたのか、赤ん坊はぱっちりと目を見開いた。その眼は、月よりも明るく、鬼火のような燭台の灯りよりも、黄金色に輝いていた。
「・・・・・・・・・・・・」
「はは、これは肝の据わった赤子だ」
 少しも泣き声を上げず、老人の指先が頬をつつくままにさせ、赤ん坊は巨大な老人を見上げ続けた。
「名は?」
「まだ、ございません・・・・・・」
「ふむ・・・・・・よし、貴様はこれよりイグナーツと名乗るがよい。・・・・・・業深き幼い命よ、老いさらばえ尽き果てるまで、その眼のように輝くがよい」
 そう老人に告げられたことを理解しているのか、それとも何度も触れられることが可笑しかったのか、赤ん坊はにこにこと微笑んだ。



 ホルトゥス州は、その土地のほとんどが、深い山や峻厳な谷川など、手つかずの自然で占められている。そのため、国立自然公園などにも指定されそうなものだが、実はほとんどが私有地であるために、国ですらその実態をつかめていないそうだ。
 これには色々と事情や歴史があるのだが、そのすべてを知っている人間はいない。
 州の中で一番栄えているトランクィッスル市街は、他州に開かれているほぼ唯一の街と言ってもいい。古風な街並みだが、道路は広く、かなり昔にこんなにも整然と区画整備されたのかと驚くほどだ。生活に必要な施設は、すべて最新と言っていいランクの高さを誇っており、住人にとってはまことに暮らしやすい。
 ただ、トランクィッスルの街は、地形的に盆地に当たり、冬の雪深さや霧が出るという気象特色の他に、夏の昼間は猛暑になることが多かった。
「あっちぃ〜」
 コンビニエンスストアからセミが鳴き喚く夏空の下へ出て、第一声がそれである。適度に涼んだとはいえ、蒸し暑い外気にはうんざりする。学生らしき青年二人は、さっそく手に持っていたアイスキャンディーの袋を破き、甘い氷菓に舌鼓を打つ。
「全部買ったか?」
 あっという間にアイスを食べきり、炭酸飲料の蓋をねじり開けた黒髪の青年は、名をレルシュ・ツヴァイスという。意志の強そうな眉目は、真面目というよりも剽悍そうな顔立ちで、珍しいことに、左目が金、右目が深い青のオッドアイだった。
「教科書類と指定教材は揃ったよ」
 答えた方は、イグナーツ・ファーネ。白髪と見紛う淡さのブルーアッシュで、細いフレームの眼鏡をかけているが、この季節に花粉症でも患っているのか、目が赤く潤んでいる。目の色は、おそらく金だろう。
「しっかし、二人そろって法学専攻なんてな。俺はてっきり、ナッツは経済行くんだと思ってた」
「あー、経済の講義も受けるよ」
「まじか!?」
 ナッツと呼ばれた眼鏡の青年の答えに、黒髪の青年が驚く。
「まあ、やれるだけのことはやっておきたいし・・・・・・。それに、俺だってレルが法学行くって聞いたときは驚いたよ。公務員になるの?」
「イイトコ出てた方が、なにかと優遇されるし、出世が早いって聞いてさ」
 面倒くせぇのはキライだとぼやくオッドアイに、眼鏡が微笑む。彼の一族が皆タフで、特に男性は肉体的に優れた部分を生かした職業についているのを、ある種の負担に思っていることを知っているのだ。
 二人の足元に置かれた重そうな紙袋には、何冊もの教科書や参考書が入っており、新学期からの勉強が高度かつ大量であることをうかがわせた。
 レルシュとイグナーツは、トランクィッスルにある一貫制の大きな学校に在籍していた。まだ十代の半ばをようやく通り過ぎているところだが、ホルトゥス州の学校では早くから職業訓練などが始まるので、おのずと進路も早く決めなくてはならず、その分、勉強の方向や量も個々に違ってくる。
「ん?」
「お?」
 その二人がほぼ同時に、目の前の道路を通過していく車を見送った。黒塗りの高級車は、窓がスモークで覆われていてたしかに目立つが、そこまで反応するほど風変りではない。
「知り合いか?」
「坊ちゃんだよ」
「なに、伯爵家の若様か」
 誰が乗っているかなどわかるはずもないのに、イグナーツは答え、レルシュも「へぇ」と興味を持つ。
「でも変だな」
「なにが?」
「いつもはこの時期、こんなところにいないんだよ。毎年、涼しいお城にいるんだけどなぁ」
 イグナーツは首を傾げるが、理由など思い当たらない。
「避暑地とか別荘とかあるんだろうなぁ。いいなー」
「あははは」
 流行りのアニメソングの呼び出し音がして、イグナーツはバッグからスマートフォンを取り出した。
「はい?・・・・・・ああ、はい。わかりました」
 短いやり取りだけでスマホをしまったイグナーツを、片眉を上げたレルシュが見つめる。
「坊ちゃんからだよ。呼び出しくらった」
「なんだ、メシか」
「そりゃ、こんだけ暑い昼日中に移動してるんだもん」
「無理しないで夜にすればいいのにな」
「ホントだよね。まあ、急ぐ用事とかあるのかもしれないけど」
 先代の伯爵に恩義のあるイグナーツは、現在も伯爵家との関わりが少なくなかった。
 よっこいしょ、とイグナーツは自分の大きな紙袋を持ち上げ、レルシュも空になったアルミ容器をゴミ箱に放って、自分の荷物をひょいと持ち上げた。
「んじゃ、帰るか」
「うん」
 二人は長い夏休みもろくに実家に帰らず、入学した時から住み着いている寄宿舎に向かって歩き出した。