冥界での珍事


 ディーテ監獄の先に容れられなかったのは、驚いた。第五層の沼は上層階とはいえ最底辺なのだが、人を殺したし、第六層で燃え盛る川に沈められるかと思っていた。
 だが、『憤怒』に魅入られて身を滅ぼした者であるから、血の色をした汚泥に浸かって殴り合うのは当然の帰結だろう。
「ぅあああああッ!!」
 左頬を殴られたら鼻を殴り返し、わき腹に喰い込んだ何かを引き離して、膝で川底に踏みつける。そこかしこでヒステリーが起こり、互いを罵り合う叫び声が耳を覆う。ボコボコと煮え立っているように見える水面は、腐敗ガスが充満しているせいだ。流れが遅すぎて沼のようだが、ここは幅の広い川で、上層階から排出される汚物の行きつく先だった。その臭くて滑った血の川で、おびただしい数の亡者たちが、憤怒に任せて互いを殴り合っている。
 自分の手は誰かを傷付けるために拳を作るのではなく、なにかを守り育てるために開かれているべきだと諭されたはずなのに、温かく懐かしい記憶は、それを壊された怒りで塗りつぶされ、殴られた激しい痛みがそれを助長する。理由なんてなくて、誰でもよくて、ただただ吹き上がる感情が体を突き動かし、永遠に終わらない苦痛が叫び声となって喉から迸る。
「あああああああッッ!!!」
 復讐を遂げて死を選んだダンテ・オルランディは、地獄に堕ちていた。

「・・・・・・あれ?え?」
 その書類に続きの一頁があったことに気が付いたのは、データを送った担当部署からの「なんだこれ?」という連絡があってからだった。
「・・・・・・え?ヤバない?なにこれ?え?知らん・・・・・・」
 見逃してしまった、見たことのない特記事項に、滝のように冷や汗が流れる。データの対象者は、すでに処分を受けて地獄に送り込まれた後だ。
「ア゛ァーーーーーーーーーーー!!!!!!」
 どうしようどうしようと頭を抱えるが、黙っていることなどできない。この上は、可及的速やかに上長に報告し、善後策を協議するほかない。
「すみませーーーーーん!!!!!!!やらかしましたぁあああああああああああああああああ!!!!!!」
「やかましいッ!!!!!!」
 首がもげるほどの勢いでぶん殴られたが、頭が胴から離れるぐらいで済むならそれでいい。パワハラなんて言っていられない状況だ。
「すみません!ごめんなさい!ヤバいです!知りませんでした!!」
「あぁ?」
 急いでプリントアウトした束を差し出し、上長の顔色が赤から青に変わって、最後には蒼白を通り越して黒くなったのを確認する。あ、これ自分死んだ、という確信ができても仕方がない、沈黙の十数秒が流れる。
「・・・・・・ヤバいな」
「はい・・・・・・」
 上長はそれ以上口を開くことなく、ふらふらと席を立った。さらに上へと報告するためだ。
「申し訳ありませんッ!!!」
 地べたに這いつくばって額を擦りつけても、許されるかどうかはわからない。それくらい、ヤバい事をやらかしていた。

「え?ナニコレ?」
「どういうこと?」
 緊急会議に集まった面子が、それぞれ書類を見ながら眉を顰めたり頭をかいたりしている。
「この子、渡し場守に手持ちの宝石や装飾品を全部渡して、渡し賃のない亡者も通してやって、って言った子じゃない?珍しいわねえ、なんて思ってたけど、経歴まではこっちにまわってこなかったのよね」
「なにその高徳キラキラしてる亡者。仏陀かキリストの再来?」
「自分の身は過分に黄泉路の支度をしてもらえたから、不運にも弔ってもらえなかった人たちを助けてほしいって。彼の祖父も弔ってもらえなかった可能性があるらしいけど、調べた限りじゃ、ちゃんと煉獄経由で天国行きになっているわね」
「慈悲深さMAXじゃん。なんで地獄に入ってきちゃったの?・・・・・・あー、罪源と関わっちゃったかぁ!」
「よくそんなに金目の物を埋葬されたな。王侯貴族か?・・・・・・は?なにこの死に様?」
「人間として死んだのか、そうじゃないのか微妙過ぎるって言うか」
「えー・・・・・・でもさぁ、亡者として魂の形があるってことは、一応こっちで受け取っても問題ないってことでしょ?」
「そこがなぁ・・・・・・この特記事項の問題で・・・・・・」
 うーん・・・・・・と全員が唸る。『異形転化により肉体のみ消滅』という、ただ一行がネックだった。異形転化をしたからには、魂も消滅してしかるべきはずなのだ。
「いつ異形化したの?」
「それが、本人にも自覚がないみたいで・・・・・・」
「現世情報によると、殺した方もびっくりしてたみたいよ」
「なにそれーーー・・・・・・」
「つまり、ゆーっくり異形化が進んでいたけど、完全体目前に、自覚のない魂が肉体から抜けちゃった・・・・・・ってこと?もうちょっと頑張れば死ななかったかもしれないのに、魂が抜けちゃったもんだから、噛まれて進行が早まった肉体だけ異形判定が出て灰になった、と」
「たぶん、そんな感じじゃないかな?そもそも、肉体が瀕死状態をキープしていたから、誰も全然わからなかったんだと思う。異形化したくても、人間として生かそうと干渉している罪源のエネルギーと混ざっちゃった可能性もある」
「うーわー。さすが罪源、ややこしい状況を作り出す天才だわ」
「で、どうする?」
 原因と状況は把握した。だが、その先をどうするかとなると、沈黙が流れる。
「一度堕ちたら、地獄から出すわけにはいかんぞ?」
「だけど、それが間違いだったら?過剰な懲罰は規定違反になるぞ」
「間違いって言うか、『いないはず』の魂よ」
「『いないはず』だからって、そう簡単に消せるわけないし・・・・・・心臓も灰になっちゃったから、アメミットに喰わせることもできないし・・・・・・せめて行先が煉獄だったら、まだなんとか・・・・・・」
「はぁぁぁ、なんで三途の川を通れちゃったのよぉぉぉぉおおおぉぉ」
「通れちゃったんだから仕方ないだろ。きっちり死んで、心を込めて弔われて、渡し賃もたっぷり持ってて・・・・・・まあ、たしかにこっちの確認ミスだけど」
「止めて・・・・・・せめてアケロン川で止まっててよ。閻魔大王も、ミノス王も気付いて・・・・・・」
 過ぎてしまったことは仕方がないが、面倒くさいことになった大ポカの発端を嘆かずにはいられない。滅多にないこととはいえ、重大な特記事項があることに気付かなかった。あるいは、重要とは思われずに通過してしまった。
「困ったなぁ」
「もう地獄についちゃったしなぁ・・・・・・」
「救済に引っかかるような亡者でもないし」
 生前の行いによって、普通に死んでも地獄行きは免れない亡者だった。どんなに悼まれ、情状酌量の余地があったとしても、自ら納得して、罰を受ける前提で罪に浸り、後悔もしていないのでは、手の施しようがない。救いようがないのだ。
「あ、そうだ」
 何か思いついたらしい声に視線が集中する。
「・・・・・・て、もう一回・・・・・・るの。これならどうかな?そこまでするっていう、本人のやる気さえあればだけど」
「最終的な結果は同じ、ってところに持っていけばいいのね」
「そうそうそうそう!」
「たしかに、煉獄にも天国にもやれないが、このまま地獄に置いておくのもな・・・・・・」
「置いておいても悪くはないんだけど、こちらの確認ミスがそのまんまっていうのがね、ね」
「現世に押し付けることになるが、本来なら、こちらに渡ることも出来なかったはずだもんな。特例が出るか掛け合ってみよう」
 うんうん、と全員が頷き、方針は固まった。

 突然頭髪を鷲掴みにされて引っ張られ、悲鳴を上げてそちらを殴り飛ばそうとしたが、宙を振り抜き、頭皮が痛いまま。抵抗しようにもすごい力で引きずられてしまい、どろりとした水面を叩いて飛沫を上げるばかりだ。
「いだあぁぁ!!いたたたっ、痛いぃ!!放せぇっ!!!」
「こら、暴れるな!クソ雑魚亡者!」
 鈴を鳴らすような女の高い声に、ダンテはびっくりして、引かれるままに川底を蹴って従った。不思議と、それまで己を支配していた怒りの感情が退いていくのがわかった。
「だれ・・・・・・?」
 通常、亡者が川から上がらないように、悪鬼たちが岸を監視していたが、いまダンテはその川岸に引っ張り上げられ、地獄には似つかわしくない光り輝く甲冑姿の女の前に正座させられた。
「えっと・・・・・・天使様、でしょうか?」
「そう呼ぶ者もいるし、バルキリーと呼ぶ者も、菩薩と呼ぶ者もいる。勝手に認識すればいい」
「はあ」
 よくわからないと首を傾げるダンテの前で、銀髪を肩口で切りそろえた気の強そうな甲冑姿の若い女は、薄くて小さな唇をニィッと邪悪に吊り上げて、体躯に見合わぬ大きな声で一喝した。
「よく聞け、クソ雑魚亡者」
 そしてダンテは、自分が絶妙にタイミングの悪い死に方をしたために、魂の行き場がなく、いま地獄にいるのも厳密には間違いなのだと聞かされて、さらに困惑することになった。
「え・・・・・・じゃあ、俺はどうすれば?」
「冥界の亡者管理委員会が出した解決策はこうだ。貴様が望みさえすれば、吸血鬼として転生させる。その後、異形としての生を全うして、魂も消滅。これで、“余っている魂”を消すことができる。天界の輪廻運営部も了承した」
「それって・・・・・・俺が、吸血鬼に?もう一回、生きられるんですか!?」
 あの場所に還れる。しかも、彼と同じ存在になれるなんて、なんて幸運なことだろう!
「そうだ。そもそも貴様は、吸血鬼に成りかけていたんだから、いまさらという話でもあるが。ただし、転生したが最後、貴様の魂は異形として潰える。二度と人間には戻れない」
「かまいません!成ります!吸血鬼に成ります!!本当に・・・・・・本当にいいのですか?ああっ、神よ!!」
 嬉しすぎて、とめどなく神への感謝が口から溢れる。涙が止まらなくて、眩しい光がさらに滲んで、尊い使いの姿を見えなくさせる。
「そんなことを神に感謝するな。たしかに、魂だけ現世に留まってしまうよりもラッキーではあるが、色々手違いの果ての話なんだから。だいたい、貴様が異形化することを、貴様が信じる神は寿がぬと思うのだがなぁ。・・・・・・まったく、変な奴だ。そんなに人間であることを捨てたいか」
 あきれ果てた使いの声に、ダンテは嬉し涙を拭って微笑んだ。
「それは重要なことではありません。俺にとって、俺を慈しんでくれた異形ひとのもとに還ることが、一番の望みであり、幸福ですから。その可能性を与えてくださった神に、感謝いたします」
「そうか。まあいい、私には関係のない事だ。・・・・・・よし、立て。クソ雑魚亡者」
 紫色のマントをひるがえして歩いていく使いの背を、ダンテは慌てて追った。
「貴様はすでに、『憤怒』の眷属として印を得ているが、それと同時に、資質として慈悲を持っている。だが、異形として生きていくのなら、貴様を最も苛むのは忍耐だろう。さっきまで臓腑と汚物の血河で殴り合っていたような衝動が、常に貴様を突き動かす。それを抑えて生きていくことが、どれほど困難であるか・・・・・・と説教したところで、貴様のその能天気を絵にかいたような精神には馬耳東風だろう。私も無駄なことをする気はない。・・・・・・あれが、現世への出口だ」
 使いが金属のグローブで覆われた手で指差したのは、ボコボコとガスを噴く血の沼で待ち受ける、黄金色のドラゴンだった。
「あれに喰われろ」
「はあっ!?あの沼のどこかに出口があるとか、そういうんじゃ・・・・・・」
「そんな簡単なわけがなかろう。とっとと噛み砕かれてこい。あぁ、現世で生きている竜族ではないから、意思の疎通は出来んぞ。喰いちぎられても、パーツを落とすなよ。しっかり飲み込まれないと、ここから抜けられないからな」
「・・・・・・もうちょっと、痛くない生まれ方をしたかったな」
「女は毎回死にそうな痛みを味わって子を産むのだ。根性のない事を言うな、クソ雑魚亡者」
「はい・・・・・・。ありがとうございます、天使様。お世話になりました」
 ダンテは使いに深く一礼して、ドラゴンが巣くう沼へと駆け出していった。その後ろ姿を眺めながら、甲冑姿の女はどこかに話しかける。
「・・・・・・おい、例の亡者が憤怒の竜に喰われに行ったぞ」
『えっ、ちょっ!?まだ早い!待って!待って・・・・・・!!』
「待てるか。あ、喰われた。うわぁ、バリバリボリボリすげー音だ。ハハッ、クソ雑魚亡者にしては活きのいい悲鳴だな。うん、すごく痛そうだ。アハハッ、がんばれがんばれ。アハハハッ」
『待ってったら!!転生先の固定がっ!まだ・・・・・・あぁっ、ずれ・・・・・・きゃあああぁ!!待って!!まってぇぇぇ!!』
「・・・・・・・・・・・・」
 悲鳴を上げるオペレーターとの通信を切り、満足気な咆哮をあげるドラゴンに背を向ける。なんかあったらサンダルフォンが何とかするだろう・・・・・・そんな無責任な呟きが、使いの唇が漏れた。