絵画の淑女 ―4―


 温暖で過ごしやすいノースカロライナの屋敷で生まれ育ち、何不自由なく成長。そして自分が望む配偶者を得て、温かで上品な家庭を築き、健やかな子供から愛らしい孫にも恵まれた。生まれてから数十年、何の不満もなく過ごして来た。
 それでも、彼女には飽くなき飢えがあった。もっと。もっと欲しい。財産も、美しさも、尊敬も、すべてにおいて、常に。それは彼女にとって、まさに息をすると同じくらい、自然なことだった。
 夫を亡くし、全身を黒い喪装束で包んだ小柄な彼女を、誰もが憐れんでくれた。注目も、感情も、自分にこそ集まって当然のものなのだ。
 莫大な資産はさらなる財貨を生み出し続け、彼女が死ぬまで尽きることはないだろう。その数年を待てばよかったのに、彼女のファミリーの一部は、急ぎ過ぎた。あるいは、彼女と同じように貪欲すぎたのだ。
 息子の一人が逮捕されたという悲報は、彼女の胸に憐みと蔑みの両方をもたらした。
「馬鹿な子・・・・・・」
 彼女が見上げる壁面には、両腕を広げたほども大きなサイズの『ライヒャールの淑女』が、穏やかな微笑を浮かべていた。
「やっとみつけた。あれか?」
「いや、あれも偽物だろう」
 若い男の話し声に振り向くと、青白い肌をした黒髪の青年と、穏やかな眉目をした栗色の巻き毛頭の青年が並んでいた。
「うっわぁ・・・・・・これ、は・・・・・・本物?」
「ミラベル・ホルボーン。六十九歳・・・・・・のはずだ」
 闖入者たちの戸惑う様子に、ミラベルはにこりと微笑んで見せた。
「ようこそ、坊やたち。何か御用かしら?」
 彼らが驚くのも無理はない。ミラベルの容姿は、三十代と言っても通用するほど若々しかった。瑞々しい肌、潤んだように輝く青い目、きちんとまとめられた豊かな金髪・・・・・・。黒いドレスを纏って、堂々と立つその姿は、総資産百億ドルを超える大富豪の女主人に相応しい。
「これも絵の影響か?」
「そうだろうな。・・・・・・本物の『ライヒャールの淑女』をいただきに参上した」
「渡すはずがないでしょう?すぐに警備員が来ますよ」
「それなら、さっさと仕事を片付けるまでだ」
 直前まで前方にいた青年たちが、直後に自分の後ろに立ったことに、ミラベルは我が目を疑った。だが、彼女が振り返る前に、巻き毛頭の方に羽交い絞めにされてしまった。
「だれ、むぐっ・・・・・・!」
「はいはい、おばあちゃん。ちょっと静かにしていてね」
 黒髪の方が『ライヒャールの淑女』を取り外し、さらにその後ろの壁に隠されていた金庫を露出させた。
「さて・・・・・・」
 暗証番号を知らないのだから開くはずがない、何重にもプロテクトがかかった最新鋭の金庫だ、と思い込んでいたミラベルの目の前で、繋がれた開錠端末は、わずか一、二分でアンロックを示した。
「ふぁふぁが!?」
「さすがは国家機関。いい物持ってるなぁ・・・・・・」
「情報ついでに貸してもらったが、真面目に一台欲しいな」
「でもお高いんでしょう?」
「これ一台で戦闘機が買えるらしい」
「ぶっは」
 金庫の扉が開かれ、中に仕舞われていたいくつかの中から、一幅の絵画が引っ張り出された。
「ぁううっ!!」
「これが・・・・・・」
 青年が絶句したのも無理はない。そこには、無残にも骨と皮ばかりになった醜い老女が、ぼろきれを纏って、牙を剥くようにこちらを睨みつける絵が描かれているのだから。
「まさに、小説のような状態だな」
「その絵、なんか見る前からヤバい気配をビンビン感じるんだけど?」
「俺もそうだ。これが本物に間違いない。さっさと依頼主に返そう」
「アイアイサー」
 解放されて床に這いつくばったミラベルは、慌てて立ち上がろうとしたが、その手の甲が見る見るうちに痩せてしわが寄り、急激に身体から力が抜けて脚腰が立たない状況に悲鳴を上げた。
「おばあちゃん、絵の代わりと言っては何だけど、これあげるよ」
 目の前の床に滑ってきたのは、一丁のハンドガン。
「罪源の食餌として死ぬか、人間として死ぬか、選ぶといい」
 穏やかな青い目が、昏い影を揺蕩わせてそう告げると、踵を返して歩み去っていった。
「待って・・・・・・待ってぇっ!!!」
 絵を持ち去った二人は、ミラベルの視界からすぐに消えてしまい、追いかけられない。だが、暴かれた金庫の中には、裏帳簿や隠し財産の目録が入ったままだ。早く隠さねばともがいたが、やせ細った彼女の体は、悲しいほどに言うことを聞かなくなっていた。
 屋敷を取り囲む車の気配と、たくさんの足音、警備員や家人の大きな声が、耳の遠くなった彼女に、床越しの振動として、終わりを告げていた。


 古い絵画を携えてイーヴァルが訪れたのは、田舎町にある小さな家だった。そこには、依頼主のミセス・ガーナッシュの他に、養子のマルグリットと、庭師の老人が出入りするだけだった。
「ありがとうございます。本当に取り返していただけるなんて・・・・・・母もきっと喜びます」
「・・・・・・どうも」
 マルグリットは、豊かに波打つ金髪と大きな緑色の目をして、白桃のような頬と赤いチューリップのような唇で朗らかに微笑んだ。
「ふふっ、養子なのに母の若いころにそっくりって思っていらっしゃるんでしょ?」
「え?ええ・・・・・・まあ」
 イーヴァルの歯切れが悪くなるのも無理はない。マルグリットの容姿が『ライヒャールの淑女』に描かれた女性そっくりだというのもそうだし、若いころのミセス・ガーナッシュもそっくりだったというのも、今初めて聞く情報だった。
「お母さん、起きてる?調査会社の方が、絵を探し出してくれましたよ」
 静かにベッドに横たわっている老女は、もう九十歳を超えているという。いつ迎えの天使が来るかもわからない彼女が、今回の依頼人だ。以前会った時はもう少し元気だったのだが、この一、二ヶ月で、ずいぶん衰弱してしまったようだ。
 イーヴァルは包みを取って、本物の『ライヒャールの淑女』を老女に見せた。
「ご依頼の品は、これで間違いないですね?」
 そこには、やせ細った幽鬼のようなみすぼらしい老女ではなく、エメラルドの髪飾りを挿した美しい淑女が微笑んでいた。
「ぁ、ぁ・・・・・・ぁぁ・・・・・・」
 しわに埋もれた目に涙をためて手を伸ばす老女にマルグリットが寄り添い、イーヴァルは彼女に絵を渡した。古い絵画は、日に焼けて絵の具が乾いてひびが入り、決して良い状態とは言えなかったが、それでも美しいと言えた。
「あ、たしの・・・・・・ひいおばあさん・・・・・・」
「えっ・・・・・・」
「母によると、この絵の女の人は、母の曾祖母に当たる人で、若くして亡くなったそうです。母の祖母が持っていたこの絵を見て、母はずっとこの絵の女の人に憧れていたんですって」
「ほう・・・・・・」
 絵を盗まれて以後、方々手を尽くして探しても見つからなかったのに、最近になってオークションに出されると聞いて、ミセス・ガーナッシュはどうしても取り返したかったのだという。
「あり、がとう・・・・・・ありがとう・・・・・・」
 やせ細ったしわだらけの手を握り返し、イーヴァルはわずかに微笑んだ。
「当社のサービスをご利用いただき、ありがとうございました」
 そんな彼らのやり取りを、壁一枚隔てた屋外で聞いていた庭師の老人の前に、亜麻色の髪の美青年が降り立った。
「なんじゃ、若いの」
「さすがは『強欲』・・・・・・。完全に他人な自分の分身作れるなんて、すごいね」
 オミは「禁欲して待っているセン」を餌にされて、嫌々イーヴァルの護衛に就いたのだが、こうして他の罪源と顔を合わせると、やはりセンの判断は間違っていなかったと誇らしく思ってしまう。
「安心せい。わしは『色欲』とも『憤怒』ともやり合う気はない。今のところはね」
 オミの目の前で、老人はあっという間にアッシュグリーンの髪を束ねた若者になった。精悍な顔立ちは美しく、どちらかと言えばオミのような優男に分類されそうだが、その服装といい雰囲気といい、熟練の狩人を思わせた。
「あの絵は、結局なんだったの?」
「私の番だ」
「えっ!?」
 本気で驚いたオミが可笑しかったのか、『強欲』はくすりと噴き出した。
「本当さ。私は彼女がどうしても欲しかった。ただ、彼女は体が弱くてね。・・・・・・無理をさせてしまった」
 罪源の欲を励起させることができる番は、そばにいるだけで罪源の渇きを癒してくれる。ただ、その時の『強欲』は、番を死なせてしまったらしい。
「私の罪と一緒に、彼女が忘れられなかった。だから、彼女の絵を描いて、我が子に持たせた。戦争のどさくさで、盗まれてしまったようだが・・・・・・」
「我が子って・・・・・・まさかっ!?」
 オミは信じられないと目を見開いたが、『強欲』は恥ずかしそうにはにかんだ。
「あの子が、最後だ。私が彼女の死と引き換えに作りだしてしまった血脈は、ここで途絶える。あの絵は、あの子と一緒に葬るさ。・・・・・・『色欲』、面倒をかけたね」
 『強欲』はひょいと帽子を取ってかぶり直すと、オミの前から飄々と歩み去った。
 室内では、『強欲』の分身とイーヴァルが、最後の欲を満たした老女を看取っていた。