二つの誘い
自然光もほとんど入らない、古く薄暗い礼拝堂。広いのに息が詰まりそうなほどの厳粛さを、アーチを描く高い天井が和らげていた。半開きになった扉を押し開いて現れた長身の影は、細かなモザイクが敷き詰められた床を踏みしめ、気を失って横たわる人体のいくつかを跨ぎ越した。 「やれやれ、流されたのが血ではなく精液なだけで、屍山血河、死屍累々とはこのことだ」 「・・・・・・・・・・・・」 まろやかな低い声が呆れて言うように、時経て黒っぽくなったベンチが行儀よく並ぶ間、その通路には、何人もの僧侶や警備員が倒れ伏していた。立っているのは、いま扉から入ってきた、長い金髪を白衣の背に流した男と、先に礼拝堂にいた、柔らかそうな亜麻色の髪の男の二人だけ。 かすかに鼻につく臭いは、成人男性ならだれでも覚えのある、汗と精液の臭い。しかしそれ以上に、この空間・・・・・・いや、この礼拝堂を含む、この国一番の大聖堂は、抗いがたいリビドーに絡みつかれるように、人間の精気を噴き上げていた。 「自分で食べもしないのに、悪戯に劣情を騒がせるものではないよ。聖職者を含む二個中隊、三百余名を夢魔たちの餌食にして、まだ足りないかね?トランクィッスルを護るのとは、わけが違うだろう」 「・・・・・・お説教しに来たの?」 わざわざトランクィッスルから追ってきたサンダルフォンに、オミは冷笑すら浮かべず、つまらなそうに向き直った。扉の隙間から差し込むぼんやりとした光が、ファッション雑誌から抜け出してきたような、完璧に均整の取れた肢体を浮かび上がらせる。 オミはスニーカーにスラックス、シャツにカーデガンを羽織っただけの、「ちょっとそこまで」といった感じの軽装だが、この大聖堂とトランクィッスルは、実に数百キロも離れている。もっとも、サンダルフォンもトランクィッスル総合病院の診察室にいる、いつもの恰好と変わらないのだが。 「この大聖堂にいる聖職者の半数以上が、君によって行動不能に陥っている。関係のない人間に気付かれてしまうよ」 「いっそのこと、その辺の性職者に観光客を襲わせようか?」 「君の自重に、伯爵も感謝しているのではないかな」 「ふん」 サンダルフォンの詭弁を鼻で笑い、オミは礼拝堂を覆いつくす壁画を見上げた。 二人が立つこの礼拝堂は、観光客で静かに賑わう区画とは離れており、柱から天井までも覆う色褪せた宗教画は、歴史を感じさせる素朴な味わいがあった。建立当時は、どんなに色彩豊かだったことだろうか。 「・・・・・・君は本当に、彼がいないと、食餌を前にしても、つまらなそうな顔しかしないな。大司教も〆てしまっては、今度こそ教皇が乗り込んでくるかもしれないぞ」 「そんな面倒ごとにまで首を突っ込んでこないでしょ。彼らが興味あるのは、クローン羊と堕胎される胎児ぐらいだよ」 旅のハプニングでトランクィッスルの教会に滞在していた魔女と人間を口実に、教会の本山はトランクィッスルを攻撃してきた。神聖不可侵の教会に、邪悪なものを入れたとして。 ところが、退魔聖職者と軍人による三百人以上の混成部隊は、ホルトゥス州に入ってからトランクィッスルに到着する前に、オミによって完全に沈黙させられてしまっていた。軍用ヘリ三機と装甲車二十数台は一瞬で無力化され、中にいた人間は傷ひとつないまま、オミの眷属たちの餌食になった。死者を出さずに人間を撃退することができる、オミならではの手腕だ。 襲撃の報せを聞いたセンが悲しんだために、オミが自主的に迎撃役を買って出たのだが、相当の被害を覚悟していたトランクィッスル側としては天の恵み、人間側にとっては想像もつかない悪夢だろう。 この大聖堂の責任者で、トランクィッスル襲撃を決定した大司教は、自分の執務室で他の僧侶たちとまぐわった姿のまま、精液と泡を噴いて倒れている。オミが心臓マヒを起こす手前で止めてやったので、まだ死んでいない。彼らが正気に戻った時の混乱ぶりは、さぞかし見応えがあるだろう。 「なにを待っているのかね?」 「大司教の要請を受け入れた軍の偉い人と、トランクィッスルを潰してもいいと思っている国家元首を、ヤれるっていうお報せ」 オミが禍根も残さないほど殲滅する気だとわかったか、サンダルフォンは天を仰いで嘆息する。 「それは伯爵の仕事だろう」 「うん。だから待ってる。お話合いが終わるの」 すでに目標は捉えており、話し合いの行く末いかんでは、即座に襲うことができるとオミは言う。 「政治家は言い訳を続けているけど、軍の方は、早々に白旗上げたみたい。元々、乗り気じゃなかったみたいね。命令じゃ仕方がないし」 「兵器を操る人間を腑抜けにされたのでは、例え乗り気だったとしても血の気が失せるだろう。人間の兵器が通用するかしないか、以前の問題だ」 「やるなら全力で、という定石が仇になったかな。さすがに自国の町に向かって、弾道ミサイルは撃ってこないでしょ」 ヘリコプターや装甲車くらいなら、テロだとか演習だとか言い訳ができるが、州外の人間がいるかもしれない状況で瞬滅を試みれば自国民が動揺する。国際社会への説明も、生半可な言い訳では他国の介入を許しかねない。互いに生きていくために、相互不可侵を取り決めた先祖の苦労が水の泡になる。彼らは、パンドラの箱の蓋に手をかけて、そこに思い至ってくれたかどうか。 オミのスマホが震え、相手を確認したオミがスピーカーにして、サンダルフォンにも聞こえるようにした。 『やあ、オミくん』 礼拝堂に響いた親し気な明るい声は、ホルトゥス州の大半を領土として持つ者だった。 「どうも、伯爵。そっちの話は聞いてるよ」 『それなら話は早い。彼らが君と話をしたいそうだよ?』 サンダルフォンは額に手を当てた。伯爵よりも道理が通じないオミを説得できると思っている人間の愚かさに呆れ果てる。オミも人間の目的がよくわからないのか、無感動に首を傾げた。 「僕とまともに話をしたいなら、仏陀かジーザスでも連れてこないと」 『あはははは!まったくその通りだね』 中年男の豊かな低い声は屈託なく笑い、死者を出さずに封殺したオミの功績を褒めたたえた。 「センちゃんが『やりすぎるな。具体的には死者を出すな』って言ったから、そうしただけ。それで、今すぐイかせていい?」 『あ、待って!ちょっと待って!できれば、スキャンダルで失脚させたいな』 「それじゃあ、首都にいる眷属の誰かに任せる」 『うんうん、よろしく頼むよ。あぁ、助かった。本当にありがとうね』 「どういたしまして」 通話を切って、オミはぼそりと呟いた。 「僕はセンちゃんのためにやっただけなんだけどなぁ」 「ここまで来てしまったら、必然だろう。ホルトゥス州の中だけで止めておけばよかったものを」 感情に任せて政治に入り込みすぎたとサンダルフォンは窘めるが、眷属に命令を出しているのか、オミはあまり聞いていない。 「だって、僕の大事なセンちゃんに、悲しい顔をさせたんだもん。・・・・・・センちゃんはトランクィッスルを気に入ってくれた。人間なのに住まわせてくれて感謝してるって。それなのに、人間が襲ってきて、自分には何もできないのが悔しいって。・・・・・・僕には、よくわからないんだけどね」 力が強すぎる上に、義理も条理も縁遠いオミならば、トランクィッスルに何かあっても、センを連れて世界のどこにでも移り住むことができた。トランクィッスルに住んでいるのも、他の所より便利で安全だから、という理由しかない。それでもオミにとっては、センが快適であることが最重要、至上の条件であるから、センが気に入っているトランクィッスルの平和を侵す存在を許すなどできない。 「本当は、関わったやつ全部、罪まみれにして枯らせたい」 「でもそんなことをしたら、 サンダルフォンの指摘が事実なのか、嫌なことを聞いたとばかりに、オミの秀麗な顔が歪む。 「ところで、なんでこんなところまで追いかけてきたの?」 話題を変えたオミに、サンダルフォンはよくぞ聞いてくれたとばかりに、白衣に包まれた腕を広げて見せた。 「君の働きのおかげで、トランクィッスル前の平原や田園地帯が野戦病院と化してしまってね。私はもともと、そこへ行っていたんだ。もちろん、クロムくんも一緒だ」 精気を吸い取られた人間の治療はもとより、食べ過ぎて動けなくなった夢魔たちにも、胃腸薬を配らねばならなかったと、サンダルフォンは肩をすくめる。 「スプリガンたちがピリピリしながらうろつくのも鬱陶しいが、君が不時着させたヘリや道路を占拠する戦車を動かすには、人間を回復させないとならない。こっちは忙しかったんだが、クロムくんから君の行方を尋ねられたんだよ。センくんが、うちのオミが帰ってこない、メールにも反応がないって、クロムくんに電話してきたみたいでね」 「えっ!?」 オミは慌てて自分のスマホをもう一度確認し、未読メールがいくつか届いているのを見つけた。急いで内容を読むと、早く帰ってこい、夕食の準備はしておく、とあった。 「えっ、あっ!ごめんね、センちゃん!ほんと?センちゃんが作ってくれるの!?うんっ、うんっ!すぐ帰るね!!」 両手でスマホを持ったまま、オミの顔は花が開くように、ぱぁっと明るく輝いた。キラキラと星が飛んでいそうなほどの笑顔で何度も頷き、オミの体はふわりふわりと浮き上がっていく。浮かれすぎて地に足が付いていない、とはこのことか。 「急いで帰らなきゃ!僕、帰るね!ばいばい、先生!」 「ああ、気を付けて帰りたまえ」 さっきまでとは大違いな、満面の笑みでぶんぶんと手を振ると、オミの姿はすうっと消え、古い礼拝堂の空間だけが残った。 「やれやれ・・・・・・」 トランクィッスルどころか、ホルトゥス州屈指の危険人物を御するなど、サンダルフォンには肩が凝って仕方がない。あれは 「ん・・・・・・?」 かすかなうめき声にサンダルフォンは首を巡らし、礼拝堂の床に倒れている聖職者の一人がもがいているのを見つけた。オミがいなくなったので、強制的な圧力から解放されたのだろう。 「なかなか根性のある人間だ、が・・・・・・」 サンダルフォンは足取り軽く近づいて、起き上がろうと体を震わせている人間を覗き込んだ。 「ふむ・・・・・・」 「あ、ぁー・・・・・・っひ、うっ!?あ、あっ!あぅ・・・・・・!」 反転しかけている血走った眼球は、しかし快楽を求めて欲情の沼に浸かったままで、サンダルフォンの美貌を見ていない。震えの酷くなった身体は、時々強張りを見せながらも、仰向けに転がった。 「あぁーッ!あぁ!も、っとぉ!はっ、ヒッ!イイッ・・・・・・ァア!!」 開きっぱなしの口から唾液をまき散らしながら喘ぎ、がくがくと絶頂の痙攣する男を見下ろして、サンダルフォンは肩をすくめた。 「もっと、ね。残念だ・・・・・・私の手は取ってくれそうもないな」 白衣の裾をひるがえした長身が、扉の隙間から差し込む光に溶けていく。長い睫毛に縁どられた青緑色の目は、もう足元に横たわるものたちを一顧だにせず、次の救済を求める者へと向けられていた。 |