儚い存在
曙の中に佇む、その大きな姿を、幼いイグナーツは見上げていた。 「イーヴァルと、仲良くしてやってくれ」 ごろごろした深く低い声。頭を撫でてくれる、大きな手。 「元気でな」 その老人の後姿を見送り、イグナーツは初めて涙をこぼした。泣いて、泣きじゃくって、声の限りに泣いた。 輝く払暁に溶けるように、巨大な星が墜ちていった。 シャツをはだけた首筋に、柔らかな唇が吸い付いてくる。 「っ・・・・・・ぁ、は・・・・・・ぁっ!」 薄い皮膚をつねられるような痛みなのに、ぞくぞくとした快感が走り抜け、腰から力が抜けそうになる。 「はっ、はっ・・・・・・ぁ、んっ・・・・・・」 震える指で仕立ての良いシャツに縋りつき、ふわふわするめまいを堪えて、いい香りのする黒髪に頬を寄せる。 「はぁっ・・・・・・」 「っ・・・・・・おい、くすぐったい」 「そ、んなこ、と・・・・・・」 イグナーツの吐息が耳にかかったのが気に障ったのか、イグナーツの首筋に埋もれていた頭が上がる。 イグナーツよりも青白い肌をした、ぞっとするほど綺麗な顔立ちの青年だ。くっきりとした眉目と、薄闇の中でも妙に血色がよく見える瑞々しい唇。しかし、蒼穹と宇宙の間のような深い紫色の目は、どこまでも硬質な輝きで冷ややかだ。 「ふん」 「ぅあっ・・・・・・」 まるで担ぎ上げられるように、イグナーツは青年に抱きかかえられて、冷たいシーツが広がったベッドに放り投げられた。 「はぁー・・・・・・はぁー・・・・・・」 「少し水っぽいぞ。暑いからと言ってだらけないで、ちゃんと食事をしろ」 「・・・・・・坊ちゃんに言われたくないっす・・・・・・」 イグナーツが口答えすると、一層冷ややかな眼差しが見下ろしてきた。 「お前は毎食毎食、メープルシロップ漬けのパンケーキや、チーズが乗ったポークカツレツや、タルタルソースのフリッターや、フライドチキンの盛り合わせを食べたいと思うか?」 「う・・・・・・」 ベッドに仰臥したまま、聞いただけで胸を押さえたイグナーツに、青年の赤い唇の端が吊り上がる。 「その点、お前は食べやすい」 「・・・・・・参考までに、料理に例えると、俺はなんですか?」 「そうだな・・・・・・今日はアサリの塩パスタ。いつもなら、ウナギのアスピックってところか」 「・・・・・・」 アスピックとはゼリー寄せのことだ。ウナギは栄養価も高く、きちんと臭みをとれば美味になる食材だ。地域によっては、ぶつ切りにしたウナギを臭みも取らずにゼリーにぶち込むという、ワイルドすぎる調理法があるそうだが、彼が言う料理ならば、見た目も味も最高に上品なものだろう。 「不満そうな顔だな」 「いや、あの・・・・・・」 文句でもあるのかと言いたげに、覆いかぶさるようにベッドに上がってくる影を見上げ、イグナーツは慌てて両手を振った。 「ちょ、待って!ちょっと休ませて、坊ちゃん!」 「坊ちゃん言うな」 意外と強い力に、イグナーツの両手はひょいとベッドに押し付けられる。 「名前で呼べ。イグナーツ」 「っ・・・・・・」 夏の遅い夜闇を射抜く瞳に、イグナーツは勝てたことがない。別に嫌ではないのだが・・・・・・。 「こ、子供の頃からの呼び方を変えるのが、なんか恥ずかしいっていうか、いまさらっていうか・・・・・・」 「俺が嫌だ。ちゃんと教えてやっただろう」 泉の精霊も恥じらいそうな美貌を不機嫌に歪ませられ、イグナーツは強くなった手を押さえる力に、しぶしぶ観念した。 「イーヴァ・・・・・・」 「そう。それでいい」 満足そうに微笑む青年は、ホルトゥス州のほとんどを私有地として持つ、ミルド伯爵家の若様で、イーヴァルという。学年はイグナーツよりも二つか三つ上だったはずだが、イーヴァルの一族は、年齢と見た目が一致しないことがあるので、正確な年齢は知らない。 イグナーツにとっては、大恩ある先代の伯爵の孫の一人で、おそらくは将来も仕えることになる人物だ。 「そういえば、新学期からは法学部になったな?」 「うん、言われたとおりに。でも、経済の講義にも、いくつか出るからね」 「かまわん。お前の裁量で受講しろ」 シャツのボタンがすべて外され、ひんやりとした手の感触が胸の上を滑ってくる。 「お前は、俺と一緒に来い」 「拒否権は?」 胸の上の手が止まり、真面目な表情が間近で見下してくる。 「・・・・・・嫌なのか?」 「え?ううん」 「ならば、余計なことを聞くな。不愉快だ」 「うん・・・・・・」 温かく流される心地よさと同時に、否定だろうと肯定だろうと意見を求められないのが、少し悔しくて、ちょっぴり寂しいのだと。贅沢すぎる、過ぎた心情だとは、わかっているのだけれど。 「ぼ・・・・・・イーヴァのことが好きだって言ったら?」 「・・・・・・いままで嫌いだったのか?」 「ううん」 「じゃあ、いままでと変わらんだろう」 変なことを言うやつだ、そんなくぐもった呟きが、首筋から聞こえてくる。 「っあ、はっ、ああぁ・・・・・・ッ!」 シーツをかきむしる指先にも力が入っていかなくなり、もどかしい快感だけが、めまいを覆い潰すように渦巻いていった。 手も触れていないのに開いたドアから部屋に入り、レルシュはしばし待った。 「ご苦労」 奥のドアが開いて、軽々とイグナーツを担ぎ上げたイーヴァルが現れ、背を向けて少しかがんだレルシュに、意識不明のイグナーツを背負わせた。 「おーおー、もうちょっと手加減しろよ。俺の血でもいいんだぞ?」 「分厚いロースカツが三枚も乗った山盛りカレーなど喰えるか」 「ロースカツカレー美味いじゃねーか」 「せめてヒレになってから言え」 脂身のない肉なんて、とレルシュは思うのだが、この美食家に何を言っても聞きはしないだろう。 「レルシュ、と言ったな?」 「あん?」 レルシュは首だけ振り向き、瑞々しい美貌を不審げに睨んだ。 「貴様も俺についてこい」 反射的に「やなこった」と言おうと口を開いて、レルシュはイーヴァルの次の言葉に固まった。 「それも一緒だ」 それ、とはレルシュが背負っているイグナーツのことだ。 イーヴァルについていけば、ついていかないよりも箔が付く。結局気に喰わなくて、将来別れたとしても、その後も世間的にはなにかと有利だ。 「・・・・・・考えておく」 イーヴァルはひとつうなずき、踵を返して奥の部屋に消えていった。レルシュは背をゆすりあげ、自分たちの寄宿舎に戻るべく、イーヴァルのマンションを後にした。 イグナーツを背負って夜道を駆け抜けるレルシュを、ちぎれ飛ぶ雲の間から、青白い半月が見下ろしていた。 |