愛の味 ―2―


 オミとセンが消え去り、とりあえず罪源同士の衝突による壊滅的危機は回避された。しかし、エルヴィーラとイーヴァルが見つめる中、ベルフォートは腹を抱えて大笑いをしていた。
「ふははははっ。見たか?あの人間、非力な小動物の分際で、我に凄みおった。なかなかどうして、いい根性だ」
「『憤怒』、趣味が悪いぞ」
 イーヴァルが玲瓏たる美貌を嫌そうに歪めたが、ベルフォートは呵々と笑って取り合わない。
「小童、おぬしは祖父に似ているな。堅物め」
「なっ・・・・・・」
「なに、我ほど生きていれば、番を得たという者を何度か見たことがある」
 自分のものではないが、他人の番なら見たことがあると、ベルフォートは軽く首を振った。
「しかしそれのどれもが、幽閉されたり鎖で繋がれて隷属させられたり、あるいはすぐに食い尽くされてしまったりと・・・・・・まあ、ああいうパターンは、かなり珍しくてな。ふはははっ」
 オミやセンとのやり取りが、そんなに可笑しかったのか、ベルフォートの愉快そうな笑い声はおさまらない。
「あれだけ仲が良いのなら、若造がキレたというのも、うなずける。あの人間がここで暮らす限り、ここの平和は約束されたようなものよ」
「アンタみたいなのが、ちょっかい出してこなければね」
「もっともだ」
 半眼で睨むエルヴィーラに、ベルフォートはおどけたように肩をすくめてみせる。
「さて、あまり幼子をからかうものではないな。我も退散するとしよう」
 出現した時と同じように、ベルフォートはふいと姿を消した。あまりにもあっけない退場に、いつものように睨み合いが始まりそうだった姉弟の間に、微妙な違和感を含んだ空気が流れた。
 『憤怒』に会ったのは、二人ともこれが初めてだった。だが、自分たちのさがの根源と言える存在の行動にしては奇妙だと本能が訴えるのだ。オミたちには、もう十分からかって遊んだから、しつこく付きまとったりはしないだろう。だいたい、いま突撃しても、あの二人は盛っている真っ最中に違いない。
 では、何処に行った・・・・・・?
「まさか・・・・・・!」
「お父様・・・・・・!」

 山間に重く垂れこめる雲が、夕日のわずかな光を淡く反射させているのを眺めながら、ヴェスパーはモーニングコーヒーを啜った。書斎の窓は開け放たれ、湿り気を帯びた冷たい風が吹き込んでくる。なじみ深い、ホルトゥス州の空気だ。
「やれやれ。不肖の子供たちでは、荷が重かったか」
「貴様の横着に付き合って責務を果たせた子を貶すのは、少し酷ではないか?」
 窓の桟に寄りかかって腕を組む紳士に視線すらやらず、ヴェスパーはコーヒーカップを置いた。
「まあ、七十点なら、及第点かな。トランクィッスルが木星まで吹き飛ばなくてよかった」
「貴様らが苦労して作った町だからな。そんなことより、久しぶりに顔を見せた客に、茶の一杯も出さぬか」
「呼ばれもしないで押しかけてきた奴に出す水などない」
 迷惑そうにベルフォートを睨むヴェスパーを、当人はニヤニヤと笑って見つめ返す。
「まったく、歳をとって増々可愛げが無くなったな」
「貴殿も年を取ったように見受けられるが?」
「我が?どこが?」
 そう微笑むベルフォートの顔から口髭が無くなり、タキシードがTシャツとダメージジーンズに変わる。ベルフォートの見た目が一気に三十は若返り、重厚な雰囲気が軽快な激しさに変わるも、溶けた金属が燃えているようなその目の輝きだけは変わらない。
「今夜はライブハウスにでも出演予定なのかな」
「それもよいな。我はよく寝かせたブランデーが好みだが、たまにはコークも悪くない」
 ヴェスパーが心底うんざりとした表情を見せると、ベルフォートは機嫌良さそうにアンティークなデスクに腰かけた。
「ロシアに行こうと思っていたのだが、インドかタイ辺りに行くのも良いな?」
「シリアやイスラエルは飽きたのか」
「ああ。アフガニスタンもソマリアも飽きたな。アルジェリアでは『傲慢』スペルビアと、シエラレオネでは『怠惰』ピグリティアとぶつかったし、チャイナは合い変わらず『暴食』の支配下だ。西の山岳部は美味いが、我の力を注ぐには貧弱すぎる。たまにはメキシコあたりに行きたいが、むこうは妹のお気に入りだからなぁ」
 世界をまたにかける罪源らしい悩みだが、それを被る下等生物の哀れさは忍び難いものがある。
「それで、ここには行きがけの駄賃というわけだ。『色欲』の若造もその番も、面白いな。罪源嫌いのおぬしが、ここでの居住を許可しただけのことはある」
「私だって、罪源のすべてを嫌っているわけではないし・・・・・・だいたい、その罪源嫌いの元凶が、よく言うね」
「ふははっ、我を嫌う割に、おぬしはなかなか怒りを出さん」
 燃え盛る炉のような目を細めて、若者らしく牙を剥きながら、ベルフォートは邪悪に微笑む。
「奪われ、蔑まれ、抑圧され、虐げられ、欺かれ、追放される。それらに抗うすべての者が、我の獲物であり、眷属である。おぬしは、その最たる吸血鬼ヴァンパイアの長にもかかわらず、あの人間から手を引いた我に怒りを向けない」
 『憤怒』ベルフォートの誘惑にさらされながら、現ミルド伯爵たるヴェスパーは、年齢を重ねた口元に静かに笑みを刻んだ。
「なにも不思議がることはない。種も仕掛けもあることだよ、ベルフォート。私は、ダンテと巡り合わせてくれた貴殿に感謝こそすれ、彼を奪われたという怒りはない」
「・・・・・・ほう?」
 凶相を近付けてくるベルフォートに、ヴェスパーは少しも退かずに告げた。
「私はダンテの血を吸った。彼が本懐を遂げた死の際、命と精神のすべてを宿した生き血を啜った。一滴残らず。それが、私を尊重し、愛してくれた彼の願いだった。・・・・・・この意味が、わかるかね?」
 腕の中で骨すら灰になって消えた青年を瞼に見て、ヴェスパーはダンテの満足そうな最期の息を耳に思い出す。
「いわば、ワクチンだよ、ベルフォート。ダンテは怒りに満ちた経験がありながら、慈悲を私に遺してくれた。『憤怒』の対極たる、慈悲を、だ」
 尊厳を守りながら生きていくために、怒りは必要だ。だが同時に、見方を変えたり、時間の経過とともに忘れたりという、己を許す慈悲によって、自身を護ることも、時には必要なのだ。
「慈悲は私を弱めたりはしなかった。私は今でも、簡単に怒りをあらわにすることができる。だが、貴殿の誘惑に抗える力は、ダンテから貰ったものだ。だからこそ、ダンテを私に引き合わせてくれた貴殿には、ことさらの感謝を申し上げる次第だ」
 この悪魔的な皮肉に、ベルフォートは仕方なさそうに首を振り、唇を歪めてくすくすと笑った。『憤怒』は決して怒らない。『憤怒』を怒らせることができるのは、『憤怒』の番だけなのだから。
「なんとまぁ・・・・・・我も焼きがまわったものだ。なるほど、そういう仕組みか」
「全能とは言えないだろうが、眷属の身でありながら罪源に対してここまでの耐性効果は、正直私も困惑しているほどだ。あれから三百年という月日も、良い結果になっているのだろう」
「だが、統治者としては得難い特質だな。良いのではないか?」
「お墨付きをいただけるとは、光栄の限りだ」
 ヴェスパーが肩をすくめてみせると、ベルフォートはデスクから飛び降り、ため息をついた。彼にしては珍しい事だ。
「つまらん、つまらん。我は復讐と騒乱と破壊が見たいのだ。激昂と憎悪こそが、美味い食餌のキモだというのに・・・・・・」
 ベルフォートはタキシード姿に上品な口髭の紳士姿に戻ると、背筋を伸ばして開け放たれている窓に向かって歩いていき、そして消えた。
 外はとっぷりと日が暮れ、星も月も見えない真っ暗な空と、何処までも続く黒い森が広がっているばかりだ。
「・・・・・・さま!お父様!!」
「父上!」
「なんだね、静かにしなさい」
 卓上ランプに灯りをともし、ヴェスパーは書斎になだれ込んできた娘と息子を眺めやった。ベルフォートの力で封鎖され、ずいぶん前から書斎に入れなくて難儀していたのだろう。
「『憤怒』は!?」
「もう去ったよ」
 イーヴァルとエルヴィーラは全身で息を吐くと、揃ってソファにどっかりと座り込んだ。
「あぁ、お肌に悪いわ」
「しばらく目つきがおかしくなりそうだ」
「アンタは元からじゃない」
「黙れ年増」
 いつも通り言い合いはしても、ぐったりとしたまま「はああぁ〜」とため息が途切れない子供たちに、ヴェスパーは不満げに唇を尖らせた。
「お前たち、もうちょっと頑張ってよ。あのおっかないのと二人っきりにされて、パパ死んじゃうかと思ったよ?」
「は?」
「そのおっかないのを、わたくしたちに押し付けないで頂けます?」
 子供たちにギロリと睨まれて、ヴェスパーはますます拗ねて見せた。
「だって、私あいつ大嫌いだもん。話してわかっただろう?すっごいムカつくの」
 もう口を開くのもだるいと言わんばかりにソファに沈む二人の為に、ヴェスパーは執事を呼んで飲み物を運んでこさせた。
「しかし、街中で罪源同士の衝突を回避させてくれて助かった。二人とも、ご苦労様」
「言われたから行ったけど・・・・・・」
「ほとんどセンにおっかぶせたな」
 こっちまでお尻が痛くなりそう、などと呟くエルヴィーラに、イーヴァルも視線を彷徨わせる。
「ねえ、お父様」
「なんだい?」
「お父様にとって、ダンテは番だったの?」
 エルヴィーラの質問に、ヴェスパーは首を横に振った。
「私たちは互いをとても愛していたけれど、番ではなかったよ。でも、彼の生き血は、愛の味がしたな」
「愛の味・・・・・・?」
 普段ならば胡散臭げな顔をするところを、珍しく冷めていない眼差しを向けてきたイーヴァルに、ヴェスパーは微笑んでうなずいた。
「私と彼は番ではなかったが、きっと番の生き血も、似たような味がすると思うな。ああ、お前たちにもいずれわかる、などとは言わないよ。あれは彼がくれた、私だけの味だからね」
 何度思い出しても、口の中がじゅんと湿る。幸福に震える全身が奥から熱くなり、泣きたくなるほどせつない気分になる。どうかもう一度、味わいたい。
「そう・・・・・・とても滋味深くて、舌が蕩けるように滑らかで、例えようもないほどの甘露だった」
 吸血鬼の渇きを癒して余りある、温かな血潮が、その最期の息吹が、彼の魂の欠片としてヴェスパーに染み込んでいった。
「・・・・・・ただ、不老不死の薬みたいに、絶望的に苦かったよ」
 愛する者を失って、大きな空虚を抱えたとしても、なお気が遠くなるほどの年月を生き続けなければならない。それは永く生きる者が背負うさだめであり、おそらく罪源の魔物ですら、その例外ではないだろう。