雪国の郷愁庭園


 暖炉の中でぱちぱちとはぜる薪を眺めながら、イグナーツは湯気の立ち上る表面を吹き冷まし、砂糖漬けにしたレモンとハチミツを入れたベリョーザ酒のお湯割りを飲んだ。だいぶ柔らかくなった刺激は喉を滑り落ち、胃の中で小さな火の玉をぽんぽんと打ち上げる。肌触りの良い陶器のカップは、じんわりと両手に温もりを与えてくれた。
「うぅ・・・・・・しかし、寒い」
「いい加減に慣れろ」
 生まれも育ちもこの寒い北国の男に言われても、まったく共感できない。
「慣れるかよ!イーヴァは生まれつき、見えない毛皮でも着てるんじゃないのか?」
「毛皮を着て生まれた覚えはないが、ベリョーザの民は酒が生涯の友であるからな。お前も、いつまでも子供のような飲み方ではらちが明かぬぞ」
 生のベリョーザ酒を水であるかのように飲む人々が住む北国を治める若き長は、にこりともしないで答える。皮肉が皮肉にならなくて、ベリョーザ人ほど酒に強くないイグナーツは手の中の飲み物に集中した。
 大陸の北に君臨するベリョーザ帝国は、人の住めない永久凍土すらも臨むという。帝都ラズーリトは、国土の中でも大陸西南の諸国に近く、比較的過ごしやすい気候のはずなのだが、それでも冬は数カ月単位で雪と氷に閉ざされる。
 城の中は、まだ暖かい。窓の外は今日も曇天で、時折雪を運ぶカミソリのような風と、凍りついた地面からの冷気によって、数歩も行かないうちに氷像になってしまうのではないかとイグナーツに思わせた。こんなに寒いのに普通に暮らしているベリョーザ帝国の国民は、火がつくようなベリョーザ酒を飲んでいるだけではなく、やはり見えない毛皮を纏っているのではないだろうか。
「いつになったら春になるんだ。もう三月だぞ」
「ラズーリトの春は五月だな」
「・・・・・・」
 がっくりとうなだれるイグナーツに、イーヴァルは自嘲するようでいながら面白がるように、長い脚を組みかえて肘掛けに頬杖をついた。
「我が国に、凍土で暮らせぬような者はおらぬ」
「まさかここまで厳しいとは思わなかったよ」
 イグナーツが唯一自由に出歩ける中庭も、溶けない雪でほとんど閉ざされてしまっている。いまは雪豹のエヴァが日課のパトロールに出るくらいだ。
「いつになったら花見ができるんだ」
「来月になれば、気の早い雪割草やスノードロップあたりが、森の落ち葉をどかせば生えているかもな。庭のライラックは、まだとうぶん先だ。春になれば、リンゴが一斉に咲く。なかなか見事だぞ」
 イグナーツの感覚では、もう若葉が芽吹く時期だというのに、恋人はさらに二ヶ月ほど先だと言う。
 イーヴァルは少し表情を変えた。
「花見がしたいのか?」
「言葉のあやだ。暖かくなれば、それでいい」
 イグナーツは慌てて誤解を解いた。イーヴァルならば、この極寒の地に生花を山ほど届けさせかねない。イグナーツはそんな無茶を望んではいない。
「そう言えば、そろそろお前の誕生日だったな。」
「え?・・・・・・ああ」
 イーヴァルの期待に満ちた顔に、イグナーツは困ったように首をかしげた。
「うん、たぶんそろそろだと思う」
「思う?」
「正確な日付を知らないんだ」
 イグナーツは幼くして母親を亡くし、船乗りだったらしい父親は、誰かも生きているのかもわからない。ラダファムの従卒に育てられるべく引き取られる時に、母の周囲にいた人や産婆の記憶から、三月上旬とわかっただけだ。
「では、三月の前半全部で誕生日祝いをすればよい」
「俺、たまにあんたの頭はおかしいんじゃないかと思うわ」
 スケールがぶっ飛びすぎている、とイグナーツは顔をしかめて首を振った。
「あんたの誕生日ですら、国民あげてのお祝いでも一日だけだろうが。日付がいるなら、適当に決めてくれ」
「では、明日の三月三日にしよう。覚えやすい」
「そうか。ありがとな」
 あっさり決めたイーヴァルに、イグナーツはやはりあっさり頷き、手の中のカップの中身を飲み干した。
「何が欲しい?」
 椅子を移ってイグナーツの隣に座ったイーヴァルに、イグナーツはくすぐったそうに微笑んだ。実際、耳元に囁かれてくすぐったかった。
「なにも。イーヴァとこうしていられればいい」
 イグナーツは広くて厚い胸にこめかみを擦りつけ、絹と毛織の服越しに聞こえてくる鼓動に耳を澄ませた。
「お前のために春を引き寄せられたら良いのだがな」
「俺のために、そんな人ならざる者にならないでくれ」
 紫と金の眼差しを絡ませてから柔らかく唇を合わせ、衣擦れの音とため息が重なる。用済みになったカップはテーブルに退場させられ、直接温もりが伝わった首筋が震える。
「・・・・・・っ、は・・・・・・ぁっ」
 黒革のチョーカーが少し位置をずらすだけで、細い鎖に繋がれた敏感な場所が淫らに硬くなる。
「俺は・・・・・・俺が一緒にいたのは、神でも悪魔でもなくて。多少性格が悪くても、人間のあんただ」
「・・・・・・この上ない、愛の告白だな」
「ふふふっ」
 軽く目を見張ったイーヴァルに、しかしイグナーツは悪戯っぽく微笑んで、さらにくちづけを求めた。
 イーヴァルに髪を撫でられるのが気持ちよくて、何度も唇をついばみながら、夢見心地で広い背中に腕を回す。ぎゅっと抱き着いて、この高貴な温もりを独り占めにしていたかった。
「イグナーツ、フビの春は、やはり早いのか?」
 心地よい静けさを破ったイーヴァルに、イグナーツは首をかしげた。
「え?・・・・・・フビには春も夏も秋も冬もないぞ?」
 イーヴァルが驚いたように見下ろしてきたので、イグナーツも目をしばたかせて見上げた。
「フビは一年中暑い。雨季と乾季はあるけどな」
 常夏の宝石諸島では、冬という概念が無い。フビ国の外れに万年雪を頂く高い山があるらしいが、イグナーツはそこに人が住んでいるかどうか知らない。イグナーツが四季を感じたのは、エクラ王国に来てからだった。
「では、一年中、花も咲けば木の実も生っているというのか」
「まあ・・・・・・だいたい何かはあるんじゃないか?種類とか数とかは変わるだろうけど」
 イーヴァルが一瞬だけ為政者の顔になったが、仕方のないことだろう。気候に恵まれた土地というのは、おおむね土地も肥えているものだ。食料に困ることがなく、凍え死ぬこともない。
「あー・・・・・・たしかにフビは暑いけど、大雨が続けばすぐに洪水になるし、疫病もよく流行るし・・・・・・エクラやベリョーザみたいに、立派な家も厚い服もないぞ?」
「ふむ・・・・・・」
 ベリョーザでは寒波で凍死者が出ることはあっても、疫病にはあまり縁がない。イーヴァルが考え事をするのを邪魔しないよう、イグナーツは口を噤んで、厚い胸によりかかった。
「それで、お前は何の花が好きなのだ?」
「ふぇっ!?」
 イーヴァルの思考順路に追いつけなくて、イグナーツは口をぱくぱくさせた。どうにも花から離れないらしい。
「花・・・・・・かぁ。うーん、薔薇もチューリップもスミレも嫌いじゃないし、別にこれといってないけど。・・・・・・ああ、フビの花ってこと?そうだな、月橘とか懐かしいな」
「ゲッキツ?」
「オレンジジャスミンのことだよ。白い花はいい香りがするし、実も食べられるんだぜ」
「ほう」
「うんうん、やっぱ食べられる実を付ける花がいいよなぁ」
 フビをはじめとする宝石諸島では、赤、白、黄色と、鮮やかな色の花がたくさん咲いた。そして、熱帯の空気に漂う香りも濃厚だ。
 止まることのない海の音、波が打ち寄せる長い砂浜、白い煉瓦と黄金で出来た宮殿とその庭、満天の星空、月橘の爽やかな香り・・・・・・。
「・・・・・・懐かしいなぁ」
 思い出される風景は、見上げたものが多い。それは、当時のイグナーツの背丈が、同年代の子供と変わらなかったせいだ。いまフビに戻って同じ場所に立ったならば、こんなに狭く小さかったのかと思うかもしれない。
 ベリョーザには、焼けつくような日差しも、熱病を運ぶ虫も、月橘の高い茂みも、生涯の主と定めた親友もいない。でも、何も危険が無く、何も不安が無い。平和で、満ち足りた鳥篭生活だ。
「イーヴァ」
「なんだ」
「・・・・・・ううん、あったかい」
 全身をまわるベリョーザ酒が、指先まで温もりを運び、懐かしい風景を映す脳裏に靄をかけた。
「だい、しゅき・・・・・・ここが、いい・・・・・・」
 力強い腕に抱かれたまま、くんくんとイーヴァルの匂いをかいで、イグナーツはだらしなく微笑んだ。本当に、ベリョーザ酒は強すぎる。
 イグナーツの額や頬に乾いた唇の感触が落ちてきて、もっとと強請りたいのに、瞼に力が入らなかった。明日はきっと、一日中甘やかされるに決まっている・・・・・・。



 後年、タスカー恩寵公園と呼ばれる大庭園がラズーリトにでき、観光客や庶民の憩いの場となっている。大貴族の邸宅並みの敷地に、数々の植物が植えられ、さらに大小の温室が合わせて四つもあり、ベリョーザの植物学・農耕学・工学・医学などの発展に、大いに貢献してきた。
 タスカー恩寵公園の前身となる、タスカー植物園が完成したのは、漆黒帝イーヴァルの御世であった。その頃は温室の設備も貧弱で、積雪で温室が壊れたとか、繁殖に失敗をしたという記録がいくつも残っている。
 合理主義で成果を重視すると言われたイーヴァル帝が、なぜそこまで温室を作ることにこだわったのか。諸説あるが、現在最も通説となっているのは、遠い異国出身だった愛人を慰めるためであったというものだ。
 実際、タスカー恩寵公園にある最古の温室には、現在も宝石諸島をはじめとする南国に自生する植物が茂っており、なかでも月橘の森は厳重に保護されている。
 また、イーヴァル帝が退位した後、晩年までを長く過ごしたと言われるペルシック離宮にも温室があり、ここにも月橘があることから、現在は名前の伝わっていないイーヴァル帝の愛人を、月橘の君と通称するのが一般的となっている。