気高き獣 −6−
黄金羊ことイグナーツが、ベリョーザ皇帝イーヴァルの元に納まってから半月が経ち、帝都ラズーリトには雪が舞い、季節は本格的な冬になっていた。
前代未聞な謁見場での出来事から、黄金羊の噂は静かに広まっていたが、いまのところ大きな混乱は見受けられなかった。どちからというと、あの陛下のご酔狂に付き合える得がたい人物、という評価の方が高いようだ。なにしろ、これ以上犠牲者が増えないということは、国民にとっては大いにありがたいことだ。 日々ご機嫌なイーヴァルを見て、内務局長のフォマーは安堵していたが、ある日イーヴァルが顔に青痣を作っていたので、思わず無礼も構わず凝視してしまった。 「へ、陛下・・・・・・!どうされたのですか!?」 「ん?飼い羊に頭突かれた」 右目の下の、ちょうど頬骨の辺りだ。皇帝に頭突きを喰らわせる黄金羊の凶暴さはもとより、それを怒るどころか楽しそうにしているイーヴァルのことも、フォマーには少々理解しがたかった。 「まるで手負いの獣ですよ」 去っていくイーヴァルと替りにフォマーに話しかけてきたのは、宮内局長のアルカディーだった。伯爵位を持つ、彫りの深い細面の老人は、渋い表情でため息をついた。 「まあ実際、最初に、より酷い怪我をさせているのは、陛下の方なのですがね」 「やはり・・・・・・」 「陛下はそれで楽しいのでしょうが、黄金羊はストレスでたまらんでしょう。彼にとって、まわりには気を許せる人間もおらず・・・・・・。世話を焼く侍従長たちですら、気を遣ってやつれてきている始末ですよ」 イーヴァルの機嫌のよさの裏には、そうとうに苦労している人たちがいたのだ。 「アルカディー様・・・・・・!」 宮殿の石廊下を走ってきたのは、閣僚や役人たちとは服装が違い、皇帝の身の回りの世話をする侍従の制服を着た男だった。 「どうした」 「お、黄金羊が・・・・・・」 その先は耳打ちになってしまい、フォマーには聞き取れなかった。しかし、アルカディーの表情が驚愕から苦虫を噛み潰したようになり、また厄介なことが起こったと察するに有り余った。 「・・・・・・わかった。早急に陛下とパーヴェル殿に許可を頂こう。君達は巻き添えをくわないように、片付けだけしておきなさい」 「はっ」 侍従が走り去っていき、アルカディーがもう一度ため息をついた。そしてフォマーの肩を軽く叩くと、無言で御前会議場であるダイニングへと歩き出した。フォマーには、アルカディーにかける言葉もない。誰かが代わってくれる苦労ならば、局長などという地位はないのだから。 黄金羊が無礼を働いた御典医の付き人を半殺しにしたというニュースは、その日の御前会議で報告された。イーヴァルの頬の青痣を見れば、さもありなんと皆が頷く。 「臣は黄金羊の要望を、早めに聞き入れて差し上げた方がよろしいと思います。すなわち、機密局員のロサ・ルイーナとの面会です。これに関しては、パーヴェル殿にも、ぜひご協力いただきたい」 宮内局長アルカディーの要請に、機密局長のパーヴェルは相変わらずの無表情で頷いた。しかし、イーヴァルはむすっとして、カトラリーを操る手が止まっている。 「ご不興を承知で申し上げまする。黄金羊は疲れているのです。長らくお待ちになった陛下の、彼を構いたいというお気持ちは重々承知しておりますが、なにとぞ今少しのご配慮を賜りたいのです」 せつとしたアルカディーの訴えにも、なかなか不満げな様子を崩さないイーヴァルに、フォマーは小さく咳ばらいをした。 「あの、横から失礼いたします。陛下、拙宅では猫を飼っておりますが、彼らは構おうとする人間からは逃げていきます。背を向けていると、自分たちから居心地がいい場所に寄ってきます。・・・・・・その、つまり・・・・・・」 「わかった。アルカディーもフォマーも、黄金羊にとって予が居心地のいい、度量の大きい人間であることを求めるのだな」 「は、はい!」 「さようでございます」 イーヴァルは相変わらず拗ねた子供のような目をしていたが、自分の倍ほども長生きをしている臣下たちにホッとされて、不承不承といった態で許可を出した。 その日の昼過ぎには、緊急に呼び出された赤毛の娘が上司と共に参内し、ごく限られた人間しか踏み入ることの出来ない、皇帝の居住区へと案内された。エクラ王国から黄金羊を脱出させて、帝都ラズーリトまで送り届けた諜報員に同行するのは、皇帝自身と、宮内局長のアルカディーと侍従長。機密局長は遠慮し、皇帝の私室には入ってこなかった。 「ここからは、彼女だけで・・・・・・」 囁くようなアルカディーの声に男たちは足を止め、簡素なドレスを纏ったロサ・ルイーナのみが、イグナーツの私室へと歩みを進めた。 揃いであるはずの二脚の椅子とテーブルが、椅子一脚を残して無くなり、クローゼットの端が凹んで、チェストの下扉が破壊されている。高価なゴブラン織りの絨毯に、うっすらと残る染みは、恐らく血痕だ。 「失礼します、イグナーツ様?」 たっぷりとした天鵞絨の天蓋付きベッドに盛り上がっていた布団がもそもそと動き、ひょっこりと淡い青灰色の髪が飛び出してきた。 「ロサ・ルイーナ!!」 「しばらくぶりでございます」 丁寧にスカートの裾を広げて礼をするロサ・ルイーナに、涙ぐむような声でイグナーツが喜びの声を上げた。 「会いたかったよぉおおおおお!!!」 「ありがとうございます。お加減はいかがですか?」 「いいわけないよ!ちょっと、聞いてくれよ!!」 会いに来てくれた友人に近付こうと、ベッドの上でジタバタするイグナーツは、本当に具合が悪くて動けないのだろう。 「ああ、ごめん。そこの椅子を使って。ここに座って」 「はい。・・・・・・イグナーツ様、失礼します」 ロサ・ルイーナの可憐な外見に似合わない武器ダコのある手のひらが、イグナーツの額にピタリと当てられた。 「冷たいよー。気持ちいいけど、女の子の手は温めなきゃダメだよ」 「何言ってるんですか。熱があるじゃないですか」 「しょーがないよ。あっちこっち怪我してるんだもん」 大きなクッションを抱えるようにもたれているイグナーツが苦笑いをし、熱の赤味以外の場所に血の気が薄いのを、ロサ・ルイーナは認めた。 「ちゃんと手当していますか?お食事は?」 「今日はまだしてない」 今朝の騒ぎを思い出したのか、イグナーツの顔が渋くなる。ロサ・ルイーナは少し待つように言い、侍従長に卵入りのパン粥を用意してくれるよう伝え、医薬品と熱々の手拭いを取ってきた。 「ぅ・・・・・・」 「恥ずかしいのはわかっています」 長旅を共にした同士であり、少々の肌の露出は観念したのか、イグナーツは布団と毛布から出て、寝間着代わりのローブをくつろげてみせた。 「・・・・・・すごいですね」 「うぅーっ」 ロサ・ルイーナも痣や蚯蚓腫れ切り傷程度なら覚悟をしていたが、それに加えて首輪から垂れ下がった二本の細い鎖が、それぞれ乳首を貫通したピアスの輪に繋がっているのは衝撃だった。 丁寧に体を拭い、腫れている傷に軟膏を塗って、新しいローブに着替えさせた。 「あ・・・・・・」 「あーっ、そこも二、三個ピアスくっついてるから!見ないで!大丈夫だから!」 さすがにそっちは自分でやると、イグナーツは股間を隠して彼女に背を向けた。 「・・・・・・陛下のご趣味って、傷めつけるだけかと思っておりました」 「どぉーっしても自分のものだって、目に見えてないと気がすまないんだよ。変態だよね、ヘ・ン・タ・イ・!」 「誰が変態だ」 「誰のせいでケツ以外にちんこも金玉も乳首もいてーと思ってんだ!このクソ馬鹿変態イーヴァ!!ぶっ飛ばすぞ!!」 ぎゃーすとイグナーツが怒鳴った先で、この国の主がイライラと立っていた。ロサ・ルイーナはかしこまって跪き、仕事中と変わらない、高くても揺るぎない声で進言した。 「恐れながら申し上げます、皇帝陛下。三週間足らずの間にこれだけの処置をされては、イグナーツ様に負担が大きすぎます」 「そーだ、そーだ!!」 「つきましては、お二方様には何処か景勝地へ、ごゆるりと新婚旅行に行かれてはいかがでしょうか」 「そーだ、そ・・・・・・え?」 ぽかんとしたイグナーツも驚いていたが、イーヴァルさえもまったく虚をつかれたように固まっていた。 「いま陛下がイグナーツ様といられるのは、ほぼ夜だけでございましょう?お出かけになられたほうが、宮殿にいるよりは、二人きりでいる時間がもてると思います」 ロサ・ルイーナの推測は的を射ていた。二人が顔を合わせるのは夜間の数時間に集中しており、しかもたいてい体を合わせる行為に及んでいた。日中のイーヴァルは公務、イグナーツは疲れ果てて傷を癒すために休んでおり、そのせいで、円滑な意思疎通と気持ちのゆとりが保てなくなっていたのだ。 「わたくしが聞き及びましたところ、陛下はイグナーツ様をお迎えになるに当たり、輿入れ行列を仕立てるのもやぶさかではなかったとか」 それは事実だった。いくら内心歓迎でも、立場上拒絶しなくてはならないラダファムが困るので、事態がややこしくなるのを避けるために断念したのだ。イーヴァルは予算を組んで随行人数を調整してパレードの道順を考えており・・・・・・本当は凄くやりたかったのだ。エクラ国王への嫌がらせの意味も含めて。 「皇妃としてお迎えできない以上、陛下のご責任を持って、イグナーツ様の権利は保証されなければならないと愚考致します。わたくしは陛下のご命令を遂行するに当たり、イグナーツ様とラダファム殿下がお嘆きにならないよう微力を尽くしてまいりました。そしてイグナーツ様がお輿入れされたあとに、イグナーツ様とラダファム殿下がご不幸にならないようにするのは、陛下のご手腕以外にはありえないと確信しております」 長いセリフをよどみなく言い終えると、ロサ・ルイーナは少し顔を上げ、困ったように首をかしげた。 「差し出がましいとは存じますが・・・・・・お二方様は、宮殿を出てデートもされたことがないのでございましょう?それでは、庶民の恋人の方が充実しております」 きっぱりと言い切ったロサ・ルイーナに、イグナーツはぼぼぼぼっと火を噴きそうなほど顔を赤くして、抱えたクッションをむやみに小突きまわした。 「でででで、でーと・・・・・・っ!?」 「嫌でございますか?」 「全然そんなことない!!なんか恥ずかしいけど・・・・・・そういうの、したことないし・・・・・・!あ、でもイーヴァ忙しいから・・・・・・」 「よかろう」 「マジで!?」 驚いた声を上げたのはイグナーツだけではない。イーヴァルの後ろに控えていた、宮内局長と侍従長もだ。 「すでに入っているスケジュールの調整は内務局長と外務局長に、それに行き先は宮内局長に任せる。近々、出かけるとしよう。それまでに健康になっていろ、イグナーツ」 「言われなくても!ああ、その間、イーヴァ禁欲な」 「・・・・・・ふん、口が減らん男だ」 言う割には楽しそうに、イーヴァルは口角を上げた。イグナーツの表情から険しいものが取れたのを確認できたのだろう。そして、その功労者が誰であるかも、よく理解していた。 「ロサ・ルイーナ、大儀であった。諫言身に沁みた。褒めてつかわす」 「もったいないお言葉。恐悦至極に存じます、陛下」 ロサ・ルイーナは平伏してイーヴァルが退出するのを待ち、立ち上がってイグナーツと顔を見合わせると、珍しく仮面のようではない笑顔を見せた。 ロサ・ルイーナがイグナーツの友人として宮殿に出入りすることが許可されるのと、イグナーツ専属医として軍務局から若いが誠実な軍医が派遣されて来るのは、「新婚旅行」が終わった新年になってからのことになる。 「あぁ、こっちを立てればこっちが立たず・・・・・・困りました〜っ!」 「これは来年のスケジュールにまで影響が出るねぇ」 イーヴァルより休暇期間を設けるために委細任された内務局長と外務局長が、年末に向けて悲鳴を上げたのは言うまでもない。しかし、彼らの皇帝は絶対なのだ。 数日後、着膨れるほどに防寒対策をさせたイグナーツを引き連れて、イーヴァルは予定通りに雪降る帝都を出発したのであった。 |