エニシ −18−


 静かな療養室のベッドの上で、サカキはぼんやりと外を見ていた。
 一時は失明かと思われた視力だが、だいぶ良くなってきた。全体的にぼやけているものの、人や物の区別がだいたいつき、色がわかるようになった。だが、以前の視力には程遠い。今見ている空も、明るいというのはわかるが、どんな雲が浮いているのかわからない。
「・・・・・・」
 いま、このウラガン城砦には、ハロルドもアルフレドも、コラーゼたちサカキの部下もいない。ほとんどの将兵と一緒に、戦闘に出ているのだ。

 数日前、自分で歩けると主張したにもかかわらず「おんぶが嫌ならお姫さま抱っこ」とハロルドに脅され、サカキはハロルドに背負われて、コラーゼと共に御前会議に出席した。
 そこで、アルフレドから流暢な帝国語で正式に謝罪を受け、あらためて公国軍と戦線を共にするよう、要請を受けた。コラーゼによると、これに先立って傭兵団へアルフレドが直々に足を運び、サカキの部下たちに謝罪したのだとか・・・。サカキは具合が悪くて眠っていたりしたので、アルフレドが見舞いに来たかどうかはわからなかったが、どちらにしろ、アルフレドの態度が軟化して、サカキたちを公平に扱うようになったわけで、サカキはとても喜ばしく思い、粛々と恭順の意を示した。
 御前会議では、帝国軍を追い払う具体的な作戦が協議されていたが、なかなか効果的な案が出ないようだった。
 公国の領土に侵入した帝国軍が散らばりすぎて、戦線が広がっているのだ。国境沿いに南北約百キロ、東西に二十から三十キロ。そのなかに、ロゼ、ラシーヌ、アシエという、三つの大きな町があり、帝国軍が占領している。少なく見積もっても、公国の領土に侵入している帝国軍の総兵数は三万を下らないだろう。おそらく、五万。本国の後詰を考えると、六万から八万に跳ね上がっても不思議ではない。
 だが、ここに集まっている公国軍は、騎兵歩兵合わせて六万という大軍勢で、公国のほぼすべての兵力が結集している。帝国軍と正面からやり合っても、無様に負けるとは思えない。
「で、どうやって戦うのだ?」
 アルフレドはもはや開き直っているかのように、簡潔明瞭に問うた。
「相手がいなければ、戦えまい。占領されている町は、そもそも我らの町だ。できるだけ傷つけずに奪還せねばならん。篭城され、住民が被害を受けるのは避けたい」
 サカキのとなりで、ハロルドも大きく頷いた。
 町をひとつずつ攻略するのは時間がかかる。その間に、他の町にいる帝国軍や、本国からの応援が集まってくるだろう。それでは消耗戦になるし、奪還した町を、今度は公国軍が守らなければならないわけだから、当然戦闘に割ける兵数が少なくなる。
 各町にいる帝国軍を町から誘い出す案も出たが、よいエサがない。
「マエストロ、貴官の意見はどうだ?」
 アルフレドから声がかかり、サカキは緊張気味に首をかしげた。
「この城砦から、グル城までの方角と距離は、どのぐらいでしょうか?」
「グル城・・・?」
 アルフレドや公国の将軍たちが戸惑う中で、コラーゼが補足した。
「国境を挟んで帝国側にある、小さな砦です。そこが、帝国の前線を繋ぐ要になっていて、補給も情報も集まっています」
 それがハロルドの通訳で会議に集まっている将官たちに伝わると、すぐに広域の地図が取り寄せられ、国境を挟んだ位置関係が確認された。
 ウラガン城砦から、直線で東北東に約五十キロ。途中、ラシーヌの町をかすめるようにして街道を行き、国境のブリュイヤン川にかかる大関門の橋を渡る。この橋は石造りの頑丈なもので、馬が四列横に並んでもまだ余裕がある。
「全軍で、真っ先にグル城を落とします。グル城の収容限界は二万人ですし、それ以上の大軍をこの近くに駐留させる余裕はありません。このとき、ラシーヌの帝国軍がわざわざ街から出てきてくれれば、これを撃破し、歩兵をラシーヌに駐屯させればよいでしょう。ラシーヌの帝国軍が街から出てこなければ、放っておいても問題ありません」
 強気なサカキの戦術に、会議場の将官たちは黙ったままだ。そんなに上手くいくかと思っているかもしれないし、占領された町を放って置くのかと不機嫌になっているかもしれない。だが、ほとんど見えないサカキには、どんな顔をされていようが関係ない。
「とにかく、急いでグル城を落とします。補給と命令を絶たれた帝国軍は混乱し、自分の国に戻るか、奪還していればラシーヌの町を再奪還しようとするか、あるいは空のウラガン城砦を占領しようとするか、それともいまいる街に固執するか・・・判断に迫られ、時間を浪費することでしょう。そのすきに、グル城を落とした公国軍は、南まわりに国境へ戻り、ブリュイヤン川を越えます。コラーゼ、まだあの浅瀬は使えると思うか?」
「そうですね・・・春より水量が増えているかもしれませんが、上流で大雨でもなければ、大丈夫だと思います」
 サカキは自分たちが公国領へ侵入したときに渡った浅瀬を、コラーゼに地図で示させた。
「国境を越えたら、南からアシエの町を攻めます。ここからが本当に奪還なので、多少時間がかかっても、確実に町を取り戻します。その後は、ラシーヌ、ロゼと、北上しながら順次攻略していきます。途中で一致団結されても、この時までに公国領内の帝国軍の残数は二万を切っているでしょう」
 サカキは一息つき、乾いた唇を湿らせてから、もう一度口を開いた。
「あくまで、私が帝国にいたときの情報が元なので、ここ二ヶ月半で、どのぐらい変化したかはわかりません。帝国の出方や川の様子で、道順や攻略の順序は、柔軟に対応しなければならないでしょう。しかし、グル城を最初に攻略することが、この戦いで有利になる最大の展開だと、私は考えます」
 早口であちこちから重ねられる公国語は、サカキには聞き取りきれなかったが、より細かい検討がされているらしいことはわかった。
 何人もの意見を聞いていたアルフレドは、最後にひとつ頷いた。
「よろしい。マエストロの案を基本戦術とし、公国に侵入した帝国軍を完全撃滅する。出陣は三日後、各々、早急に準備されたし」
「はっ」
 サカキは、自分の案が採用されたことで、急に心細くなったが、ハロルドが自分のことのように、嬉しそうにサカキを褒めるものだから、照れくさくて恥かしくなった。
 それよりも、いよいよ故国との決戦だと気持ちを引き締め、心配をかけた部下たちのところへも行ったのだが・・・。
「マエストロの出陣は許可しねぇぞ。見えねぇのにどうやって戦う気だ?それ以上悪化させたらどうすんだ」
 軍医ジョッシュの一言で、サカキは留守番が決定してしまった。
 肝心な時に前線に立てなくてショックだったが、場合によっては、ほとんど人のいなくなったウラガン城砦で篭城戦になる可能性もあるので、それなら軍医の言うことを聞いていた方が利口だ。
 サカキの不参戦には、アルフレドも頷いた。なにしろ、怪我をさせた張本人である。
 自分が提案した作戦に参加できないのは悔しいし、提案者としての責任を現場でも負っていたいのだが、かえって邪魔になってはいけない。サカキは渋々参戦を断念し、ウラガン城砦で待機することを決めた。
 ダン・ソルシエール傭兵団はコラーゼが率い、メグやミシェルたちの助けを借りて、ハロルドに戦果をもたらしてやることだろう。
 出陣の日、まだおぼろげな影しか追えないサカキを、ハロルドはぎゅっと抱きしめてくれた。
「ちゃんと療養して、待ってて。すぐに帰ってくるから」
 そっと頬に触れたのが、ハロルドの唇だとわかって、舞い上がってしまったサカキは、言うべき言葉が出てこなかった・・・。

(どうか、無事で・・・)
 この数日、ひたすら祈っていた。コラーゼや部下たちの武運を、メグやマルコやミシェルたちの武運を。そして、ハロルドの無事を。
 サカキの立てた策が、まったく役に立たなかったらどうしよう、むしろ公国軍を窮地に立たせてはいないか・・・そんな不安ばかりがぐるぐるとサカキを苛み、キリキリと胃が痛んだが、一日一回飛び込んでくる伝令は、いまのところ順調に勝ち進んでいることを伝えてくれた。特に、最初の伝令から丸一日間の空いた、グル城攻略の報せは、サカキを喜びのあまり腰砕けにしてくれた。
(いまごろ、ラシーヌとロゼの間で戦っているのかな・・・)
 戦いは、最後の最後まで気が抜けない。長丁場の最後になるほど、危険が増すのだ。
 そのとき、レィゼが療養室に飛び込んできた。
「マエストロ、土煙です!ここから見えるかな・・・?」
 サカキも慌てて窓の外に目を眇めるが、ぼんやりとした城砦の輪郭は見えるが、その向こうの景色までは見えない。
 敵か、味方か・・・?城砦のあちこちから声が上がり、騒然となっていく。
「味方だ!!アルフレド様の軍だ!!」
 どっと沸きあがる歓声に、サカキもレィゼの腕をつかみ、背を撫でられたが、胸がいっぱいで言葉が出なかった。
 グルナディエ公国の旗が先頭に翻った騎馬の群れが、サカキのいるウラガン城砦を目指して行軍していた。