エニシ −10−


 ハロルド公子付き楽士のサンダルフォンは、膨大な紙類を収めた書棚に囲まれた部屋を訪れ、そこの主と差し向かいでティーカップを傾けた。
「経過はいかがかな、軍師殿」
「ことの面倒さをわかっていながら安請け合いをしてしまい、毎度後悔をする。我ながら呆れるほどですよ」
 金髪を短く刈り込んだ男は穏やかに微笑んで、ラグの上で寝そべる大きな獣をうっとりと眺めた。視線の先にいるのは、黒豹のクラスターだ。
 サンダルフォンが軍師と呼ぶこの男、ヴェルサスは、グルナディエ公国の軍事事項を統括している軍官僚だ。職位は参謀長だが、その上はこの国を統べる大公しかいない。
 公国に宰相はおらず、大公が直に政務を執り行っている。それに三人の公子や各大臣たちが加わり、内政に関してはほぼ固まる。だが外交に関しては、ヴェルサスに意見を求められることが多かった。それだけヴェルサスの視野は広く、頭の中身は精密なのだ。
 ヴェルサスに軍を動かす権限はないが、大公が否といわなければ、なにをどのように動かすべきかを事実上決定できるのはこの男だ。ハロルドのわがままが重要な事項の場合、サンダルフォンがまず押さえるのは、常にヴェルサスだった。
「あなたの素早さにはかないません。どうしてこの座っている位置が逆でないのか不思議ですよ」
「簡単なこと。私はハロルド殿のわがままを聞くのが好きであって、軍師殿はこの国が求めるものをお持ちになり、それがきわめて優秀だからだ」
「サンダルフォン殿には、手玉に取られている気がしますけどね」
「それは仕方がない。軍師殿が、野生動物フェチなのがいけないのだ」
 サンダルフォンはうふふふと笑い、ヴェルサスは完敗と言いたげに顔を覆う。
 ラグの上で大きなあくびをしているクラスターを、ヴェルサスに一週間ほど貸し出すだけで、たいがいの難題を二つ返事で引き受けてくれるのだ。毎度これで釣られるヴェルサスもどうかと思うが、味気ない政戦略に、ハロルドのささやかなわがままというファクターが加わるのを、案外楽しんでいるのかもしれない。
「それにしても、今回は厄介ですね。ハロルド様のわがままは、いつも可愛らしいので、僕も叶えがいがあるのですが・・・」
 形のよい眉をひそめ、ヴェルサスはこめかみを揉む。厄介だからこそ、サンダルフォンが先手を打ってヴェルサスに話を持ち込んだのだが、こればかりは制度よりも感情の問題だ。
「やはり、大公殿下や上の公子殿たちは、よい顔をされないか」
「あたりまえですよ。絶好の政治カードだったのに、ハロルド様のせいでフイになってしまったんですから」
「早い者勝ちだと言っても、納得していただけなさそうだな」
「ですが、事実を先に作ってしまわなければ、もっと不安定だったでしょう。統治者が法を無視すれば、内外に示しがつきませんから」
 マエストロ以下二百数十名の亡命は、大公たちに阻止される前に済んだ。有事の混乱のさなかで、まさに滑り込みと言っていいタイミングだった。
 激高した一番上の公子が、まだ身分が宙に浮いている三十余名・・・ユーインに率いられてオルキデア王国を目指している一行を捕縛しようとしたが、それはヴェルサスが止めた。帝国と交戦中に、その同盟国の王子を攻撃したら、いまは静観しているオルキデア王国からも攻撃される。それでは公国の防衛能力を超えてしまうのだ。
 二番目の公子が、亡命したからには公国の住人、かえって大公の命令ひとつで、処刑も追放も思いのままではないかと言ったが、それには大公が躊躇いがちに眉をひそめた。その言は魅力的ではあるが、公国の信頼に響くし、なにより大公の人格を否定的に取られかねない。太っ腹でおおらかな人格者として親しまれている大公にしてみれば、斬新過ぎて受け入れられない科学者や技術者、才能ある芸術家が、裏切りを恐れて公国に入ってこなくなるのは困る。
「なにしろ、帝国でも微妙な立場の方ですからね。公国での扱いにも神経質にならざるを得ないでしょう」
「だからこそ、メグがハロルド殿に保護を求めた・・・。マエストロは、若いながらも責任感があって気配りのできる、立派な騎士だと聞いている。両親に愛された記憶もなく、自分の出自にもあまりこだわりがないようだが、それにまわりが巻き込まれるのを憂慮しているそうだ」
 サンダルフォンの言葉に、カップを持ったままのヴェルサスが表情を微妙に変化させる。
「その・・・本当に先帝の子なのでしょうか?マエストロがハロルド様よりもお若いということは・・・」
 母親がいくつだったかは知らないが、少なくとも、父親は五十半ばを過ぎてからの子供だ。サンダルフォンも苦笑するしかない。
「同じ男として腹立たしいのはわかるが、そういうこともあるのではないかな。二十から四十も年下の女性を無理やり孕ませるなど、まったく趣味ではないが」
「同感です」
 サンダルフォンやヴェルサスの年齢から考えると、完璧なロリコンだ。自分の娘や孫と同じくらいの女性と・・・などとは、考えるのもおぞましい。年の差恋愛というより、犯罪か遺産目的と考える方が自然だ。
 まだ三十代で、身を固めるより国政に首を突っ込んでいた方が楽しそうなヴェルサスだが、同年代やもっと若い女性が老獪に手篭めにされるのは、やはり不愉快に思うようだ。
「マエストロを狙った人物については内偵を進めていますが、帝室内部とすると我々が手を出すには困難が過ぎます。放っておくか、自滅を誘うしかないでしょう」
 血筋はいいのに望まれず、両親の愛を知らずに育ったマエストロを、サンダルフォンもヴェルサスも気の毒に思っていた。だが、すでに他人が口出しできる時期ではない。
 ヴェルサスはクラスターの美しい毛並みを眺めて、気を取り直したように表情をあらためた。
「マエストロたちがこの国で暮らすことに、僕もできる限りのことはしますが、ご本人達にも、ご努力を頂くと思います」
 サンダルフォンは頷き、ハロルドの出陣意志が固いことを告げた。
「ハロルド様も、兄君たちに煩がられるのをご承知で・・・」
「そうは言っても、前線の参謀も、異国人に指示を出すよりは、ハロルド殿の方がやりやすいのではないかな」
「それはそうですね」
 ヴェルサスは何気なく二枚の羊皮紙を取り出した。どちらも公国の紋章が施された立派な公文書だ。
「ハロルド様には、騎兵千五百を率いていただきます。同時に、三十名の工兵と技術者、馬車五十台分の物資を前線に運んでいただきます。彼らを効率よく使うには、高級軍人よりも、ハロルド様の方が人望ありますからね。それから、前線から後退してきた残存兵力をまとめていただき、シェーヌからの復帰兵も加えます」
 ばらばらになった兵の再編成だけでも、目の回るような忙しさだろう。サンダルフォンには、ハロルドに付いていくマルコの苦労がしのばれた。
「それから、新規の雇用として、傭兵の一団を加えます。こちらはすでに整った命令系統を有しているので、必要な装備と物資を供給するだけです。ハロルド様の良い戦力になるでしょう」
 ヴェルサスとサンダルフォンの視線が交わり、にやりと笑みが交わされる。
「我々の常識に囚われない、自由な発想を持って、敵をかく乱することを期待します。もちろん、兄上達や大公殿下を納得させられる、会戦での派手な戦果も、ですが」
「よく伝えておくとしよう」
 帝国が国境を越えてから二ヶ月、辺境だが三つの町が落とされた。じわじわと自分達の領土にしていこうとしているようだが、そろそろお帰り願うべきだろう。


 ユーインと共にオルキデア王国へ亡命する部下たちを見送った時、サカキは少し涙が滲んだ。
 共に戦った同胞達との別れは辛かったが、そもそも自分の暗殺事件に巻き込まれなければ、こんなことにはならなかった。責任を感じるサカキを、逆に励ましてくれる彼らだった。幸せを願わずにいられない。
 そういえば、ユーインにまとわりつかれていた衛生兵のクロムだが、結局一緒について行くことになったようだ。病院にいるときは、時折憂鬱そうな表情も見せていたが、出立の時は晴れ晴れとして、華やいだ雰囲気になっていた。きっと、ユーインと共に、むこうで幸せにやっていくことだろう。
 サカキはといえば、刺されたところが時々痛むものの、だいぶ回復していた。馬に乗った長距離の移動や、戦闘ですぐにやられてしまわない程度には、体を元に戻さなくてはいけない。病院内の雑事を手伝ったり、予備役状態の公国兵たちと一緒に、軽い運動や剣術の稽古で汗を流したりしていた。
 その日、シェーヌ駐屯地の司令官室に呼ばれ、サカキはコラーゼを伴って、中年の立派な公国騎士の前に立った。
「諸君らの亡命が認められた。同時に、公国民として戦線に立つことを要求する」
「はっ、ご厚恩、かたじけなく存じます」
 司令官にとって、二人の若造は士官というにも片腹痛いだろうが、野戦病院や駐屯地での働きもよく見ている。
「ヴェルサス参謀長より、直々のお達しである。マエストロ率いる魔女のダン・ソルシエール傭兵団は、これより補給を済ませて北東へ進軍し、明後日にはヴェリテの平原にてハロルド公子の部隊と合流するように」
 目を丸くして敬礼する二人に、司令官は慈父の微笑を浮かべた。
「武運を祈る」