エニシ −4−


 先頭を歩くクロムとユーインに続き、ハロルドとコラーゼ、マルコとクラスターが続く。
「マエストロさんって?」
「あの・・・帝国の皆さんが、そう呼んでいらっしゃるので・・・」
 ハロルドの問いに、クロムは少し困ったように、コラーゼを振り向いた。
 ハロルドが聞いたのも無理はない。「マエストロ」は公国語では「メートル」となるが、直訳すれば「お師匠」だ。名前ではない。
「我々の隊長は貴族ではありませんが、敬意を払われる出身なので、マエストロとお呼びしています」
「ああ、なるほど。魔女の血族だっけ?」
「はい。もうほとんど伝承になるほど薄れてしまったことで、マエストロも気にしていませんが、昔からコーダの民は、魔女の血族に導かれ、助けられてきました」
 ユーインの通訳でコラーゼから理由を聞くと、ハロルドは頷いた。だが、その表情は微妙に変化している。
 帝国の兵士達の忠誠は、マエストロ本人ではなく、その出自に対してなのだろうか。そうすると、マエストロ本人に対する評価は、少し下げた方がいいかもしれない。
 そうは言っても、二年前に七十三で他界した先帝の嫡子というからには、それなりの年齢なのだから、敬意をもって接しなければならないだろう。ハロルドたちよりずっと年上なのは確実で、下手をするとハロルドの父親と同じくらいかもしれない。普通に、師匠・先生と呼んでも違和感がないだろう。
 病院の敷地内を歩き、簡素な病棟の前にたどり着くと、クロムが立ち止まって振り向き、声を落として話した。
「これからご案内する場所は、重篤な患者さんたちばかりの病棟です。できるだけ、お静かに。それから、その・・・大変匂いがきついので、不慣れな方はご遠慮いただきたいのですが・・・。よろしければ、俺がマエストロさんを呼んで参りますけど」
 一同は顔を見合わせた。
「クラスターはここで留守番だな。お前鼻がいいだろ」
 ユーインに言われて、クラスターはぷいっとそっぽを向く。それを見て、ハロルドは苦笑いを浮かべた。
「マルコとクラスターは待っていてくれ」
「ハロルド様、大丈夫ですか?呼んでもらった方が・・・」
 心配そうなマルコに、ハロルドは少し考えたが、首を横に振った。
「病室を抜け出してなにをしているのか、どんな人なのか、見てみたい。案内してくれ」
 ハロルドの申し出にクロムは頷いたが、ユーインは難しい表情で手を振り、コラーゼも眉を寄せた。
「あ、俺はパス。通訳必要なら、外まで呼び出してくれ。この中、マジで半端ないから」
「私も遠慮いたします。恥ずかしながら、マエストロほど慣れませんで・・・」
 そんなにひどいのかと、一応ハンカチを取り出しておいて、ハロルドはクロムの後に続いた。
 病棟に入ってすぐに漂ってきた奇妙な匂いに、ハロルドは眉を寄せた。香りの良い薬草を焚き染めたような匂いもするが、主に感じるのは、甘い果実が饐えたような、重くて、胸がむかむかするような匂いだ。
「壊疽の匂いです。どうか、ご辛抱を」
 クロムに囁かれ、ハロルドは頷いた。
 「芳香の病室」とはよく言ったものだ。ここにいるのは、傷が腐って体中に毒が回り、治る見込みのない、死を待つだけの患者たちなのだ。
 クロムが襟元のマスクを引き上げ、他の衛生兵もそうしているのを見て、ハロルドは吐きそうな気分を堪えて、ハンカチで鼻と口を覆った。さすがに、この空気を吸い続けられる自信はない。すでに涙目になりかけている。
 どこからか、呻き声や啜り泣きが聞こえてくる。傷口が壊疽をおこすと、手遅れになる前にそこから四肢を切断しなければならない。それでも、生き残れる可能性は極めて低かった。ここにはたしかに、苦痛と死が満ちていた。
 静かに廊下を歩き、いくつめかの病室で、クロムがあの人だと身振りで示した。
(え・・・?)
 四床のベッドが埋まった薄暗い病室の中は、染み付いた腐臭と汚物の匂いを紛らわせるための香が焚かれており、鼻がもげるどころか目までつぶれそうだ。
 それなのに、ひとつのベッドの傍らに座った小柄な人影は、鼻を覆いもせず、しっかりと患者の手を握り、時々頷き、囁きながら、頭をかき抱くように撫でている。
 二人の会話は小さすぎて聞こえにくいが、片方がずっと「かあさん」と言い続けているのは、なんとなくわかった。それに苦痛を訴える呻き声が混ざると、座っていた方が何か取り出し、自分の口に当てると、今度は寝ている方に覆いかぶさった。
(なに・・・やって・・・?)
 薬か何かだろうか、それを口移しで飲ませたらしい。やがて、呻き声が静かになって、不安定ながらも寝息に変わった。
 そこでやっと、繋いだ手を放して、座っていた方が立ち上がったが、今度は別のベッドに、杖をつきながらひょこひょこと移動し、また傍らに座って手を繋いだ。
「まさか、ずっとこれやってんの・・・?」
 クロムに小声で問いかけると、はっきりとした頷きが返ってきた。
「マエストロさんがきてから、亡くなった人の顔が、とても穏やかになったんです。帝国の人だけじゃなくて、うちの兵士も」
 くぐもった囁きを耳元で聞き、ハロルドは唖然となった。壊疽で死にかけている人間を見舞うのも驚きだが、何の関係もない公国の兵士にまで、ああやって労わりの声をかけ続けているとは・・・。
 クロムがそっと歩き出したので、ハロルドも慌てて後に続いた。
 そのベッドに寝ていたのは、深くしわの刻まれた老人だったが、死病で痩せこけても、頑健だったろう面影があった。歴戦の勇士に違いない。
「マエストロ・・・・・・もうし、わけ・・・ぁり・・・せ・・・」
「どうした?なにか、して欲しいこと?」
 傷病人を落ち着かせるような、ゆっくりとした話し声は、ややかすれた低い声だったが、かなり若い。老人は小さく首を振り、死にかけの喉を振るわせた。
「もう・・・おやく・・・たて、・・・せんで・・・」
「なにを言っている。よく働いたではないか。・・・これから一緒に帰るんだぞ」
 若いマエストロは、老人の広くなった額をなで、しわと染みのある大きな手を握っている。
 その彼に、クロムはそっと囁いた。
「え?」
 顔を上げたマエストロを、ハロルドは初めてまともに見た。薄暗い病室でも、整った顔立ちや強い光のある琥珀色の目、緑色の癖毛であることがわかる。
 誰だ、先帝の子だから五十路くらいの、むくつけきおっさんだと言ったのは。どう見ても、ハロルドより若い。せいぜい、十七か十八か・・・。
 まじまじと目が合ったあと、目礼もそこそこに、マエストロは少し弾んだ声を老兵に向けた。
「喜べ。公国の公子が味方になってくれるぞ。きっと無事に帰れる」
 すると、茫洋としていた老人の目がかっと開き、しっかりとハロルドを射抜いた。その鋭い瞳の奥に、生命が燃える炎を見た気がしたハロルドは、老人のすさまじい迫力に、鳥肌が立つほど戦慄した。これが、古強者の底力というものか。
「公子殿、マエストロを・・・よろしく、お頼み申す・・・」
 地に響くようなずしりとした老人の声に、からからになった喉で唾を飲み込みながら、ハロルドは頷いた。
「・・・ああ、わかった」
 老人の声と比べて、なんとか細い声かと、ハロルドは情けなくなったが、そう思っているうちに、老兵はすうと目を閉じてしまった。・・・疲れて眠ったようだ。
「出ましょう。マエストロさん、あなたも重症なんですから、動き回らないでください」
 穏やかになった老人にほっとしていたマエストロだったが、クロムの小言にバツが悪そうに見上げ、頷いた。・・・やはり、ハロルドよりもクロムよりも若い、「お師匠」だ。

 芳香と死臭に満ちた病棟を出ると、やはりマエストロが年上だと思い込んでいたのか、マルコが驚いた表情を見せた。
「大丈夫ですか、ハロルド様。顔色悪いですが・・・」
「あー・・・すごかった」
 いまさら吐気が襲ってきて、ハロルドはハンカチで口元を押さえたまま、よろりとマルコにもたれかかった。
「う・・・凄い匂いですね」
「移っちゃったか・・・ごめん」
 匂い移りした自分の体を引き剥がし、ハロルドはぐっと苦いものを飲み下した。
 杖をつき、ひょこひょこと歩くマエストロもあまり顔色がよくないが、それは怪我のせいもある。それなのに、よくあんな所にいられるものだと、ハロルドはあらためて感心した。
「お初にお目にかかります。サカキといいます」
 たどたどしく公国語で話したサカキだが、すぐに帝国語に戻った。
「ご足労をおかけして、申し訳ない。あと、公国語は、あんまりしゃべれなくて・・・」
 恥かしげに視線を下げるサカキが、ハロルドにはなんだか可愛らしく見えた。芳香の病室にいたときと、ずいぶん印象が違う。
「大丈夫だよ。それじゃ、マエストロの病室に戻ろうか」
 ハロルドが差し出した手を、サカキは少し躊躇ったあと、杖を持っていないほうの手で繋いだ。その少しひんやりとした感触に、彼が見掛け以上に無理をしているのだと、ハロルドは胸が痛くなった。