エニシ −1−


 自分が指揮する部隊の先頭に馬を立てたサカキは、はるか先に布陣する敵軍を眺めながら、兜の下で眉間に深くしわを刻み、部下たちに気付かれないよう嘆息した。
 背高く草の伸びた平原、よく変わる春の風向き、戦いの無意味さ、いまいち信用に欠ける味方・・・何もかもが気に喰わなかった。
「マエストロ!」
 馬に乗った鎧がガチャガチャ言う音とともに呼びかけられ、サカキは半分だけ顔をそちらに向けた。
「マエストロ、お戻りになられていたのなら、声をかけてくださればいいのに」
 赤毛のやや線の細い青年が、不満というよりは泣きそうな顔で馬を寄せてきた。コラーゼというその若者は、サカキを師匠マエストロと呼ぶ。師弟関係ではないが、サカキの部隊の人間は、みな、隊長カピターノではなく師匠と呼んだ。サカキが貴族ノービレ出身ではないが、特別な家系の出だからだ。
「休憩中だったろう。短くとも、休息は必要だ」
「そういう問題じゃないですよ」
 副官なのに上官が戻っていることを知らないのは、たしかにまずい。困った顔をする青年に、サカキは口元だけで微笑んだ。
「それで、いかがでしたか?」
「よかったら、こんなところで不貞腐れていない」
「もぉ。無駄なことやめましょう?師匠はただでさえ要領悪いんですから」
 ずけずけと言うコラーゼに、サカキは憮然となったが、事実なので仕方がない。不機嫌になっているサカキをなだめたり愚痴を聞いたりするのは、たいがいコラーゼの役割なので、さらにいちいちもっともな評価だ。
「せめて、下草がなければいいんだが・・・」
「向こうも条件は同じ、とか言われたんでしょ?ここは向こうの領土なわけだし、地の利は向こうにあるって言い返したけど、グルナディエ公国は地面に罠を仕掛けない・・・」
「もう言うな。全部そのとおりだ」
 いらだたしげに手綱を握り締めるサカキに、コラーゼは天を仰ぐ。明るい青空に、白く薄い雲が、ゆったりと流れている。
 現在、サカキたちが所属する神聖コーダ帝国は、隣接するグルナディエ公国と交戦状態にある。交戦状態と言っても、帝国が勝手に領土を越えているだけだ。本格的な会戦には至っていないものの、今回のような小競り合いは、先月辺りから毎週のように起こっている。
「せめて風向きが安定すれば、火ぃつけちゃうんですけどねぇ」
 物騒なコラーゼの案だが、サカキもまったく同意見だ。草が生い茂って地面の見えない敵地を騎馬で走るなど、正気の沙汰ではない。少なくともサカキは、騎兵隊を動かして戦う場所には選びたくない。
 ここの司令官は馬鹿ではないはずだが、サカキの意見を取り入れようとはしなかった。グルナディエ公国が、信仰上の理由で地面に罠を仕掛けないとしても、どこに伏兵が潜んでいるか、わかったものではない。
「・・・全力を尽くそう」
 サカキができる事はやった。この上は、一騎士として、一部隊長として、現場での責務を全うするまでだ。

 サカキの部隊は精強で、先陣を任されるに適当な力量は有していた。だがけっして、サカキ自身は、騎士としてそれほど強いわけではない。なぜか強い部下が集まってきただけだ。
 コラーゼあたりは「弱いから放っておけないんですよ」と眉尻を下げるが、歴戦のつわもの達は「人徳だな」とニヤニヤ笑う。
 そんな騎兵二百騎、歩兵五百人を従え、サカキは他の部隊と同様、敵陣へ肉薄して行った。
 万の足音が地を揺るがし、万の雄叫びがごうごうと耳を聾する。人いきれで生暖かくなった風が、青々と生い茂った草を巻き上げた。
 サカキは駆ける馬から振り落とされないよう、必死で手綱を手繰り、重い長剣を振り上げた。ガツンガツンと鋼がぶつかり合い、興奮して跳ねる馬の背で、互いの乱れた呼吸をうかがう。銀色の鎧、黄色い房飾りのある兜、よく鍛えられた黒毛の馬、綺麗な刃の先に彫刻がある柄を見つけ、高価な品だと頭の隅で思ったときには、サカキの腕は重い衝撃を感じ、視界に捉え続けた緑色の目が、驚愕に見開かれたまま、生気を失っていくところだった。
 剣を握った手にぐっと力を込め、自らの重みで死体が抜けていく勢いを借り、反対側から伸びてきた歩兵の槍を叩き落とす。次に相対した騎兵の首に剣を叩きつけたところで、ひときわ優美な乗りこなしをする騎兵が、サカキの目の前に躍り出てきた。
「くっ・・・」
 予想以上に早く重い剣撃を顔の前で受け止め、サカキは腕が痺れると同時に、背中に冷や汗が流れた。
(強い・・・!)
 目の前の騎士は、サカキより数段上に思われた。初撃を耐えられたのは幸運だったが、次からは防戦一方に追い込まれた。
(ちょっと待て・・・?)
 目の前の騎士はたしかに強いが、まわりの人間たちに比べ、一回り細身だ。面覆いのせいで顔は見えないが、サカキと同じくらいの若造か、それとも・・・。
 一か八かの誘いに突き出された剣先をはねあげ、返す刃を相手の喉元ではなく、手元に振り下ろした。
「っ!?」
 手綱を断たれてバランスを崩した騎士に、サカキは容赦なく剣の平をたたきつけた。
「すまん!」
 バコーン!と凄い音がして兜がゆれ、騎士が落馬する。戦場での真剣な一騎打ちでこれでは、相手はさぞ不名誉に思うだろうし、サカキも申し訳ないと思う。だが小さな悲鳴は、たしかに女の声だった。
 そのとき、異変を訴えるコラーゼの声がサカキにも届いた。
「味方が撤退しています!うちだけ孤立してしまいます!」
 撤退の合図はなかったし、こんな作戦は聞いていない。サカキは一瞬のパニックを皮膚の下に押し隠し、声を張り上げた。
「我々も退くぞ!」
 素早く撤退の笛が鳴ったとき、サカキはぐいと腕を引っ張られ、驚いた。
「逃がさん!!」
「ちょ・・・っ!?」
 落馬したはずの女騎士が、サカキの剣ごと、腕にしがみついていた。たまたま、そのアイスブルーの目と視線が合ったが、彼女はすぐに、サカキの後ろへ視線を動かした。
「ぇ・・・?」
 小さな驚愕の声を聞いたとき、サカキは焼けるような痛みを、わき腹の後ろの方に感じて、歯を食いしばった。
「っ・・・!」
 ざっと背の高い草を踏む音を聞き、本能的にしがみつかれたままの右側へ、体を倒す。青い空を背景に、味方の軍装をした子供のように小柄な影が、馬の背を越える驚異的な跳躍で、サカキへ血塗られた短剣を突き出してくるところだった。
 渾身の力で払った盾が、耳障りな音を立てて短剣を跳ね返す。
「ぅああっ!」
「きゃあああ!!」
 サカキは女騎士を下敷きに落馬した。
「マエストロ!!」
 コラーゼをはじめ、方々から声が上がり、撤退の足が止まった。
「っ・・・馬鹿!止まるな!!」
 サカキは痛みを堪えて立ち上がろうとしたが、力が抜けてできなかった。鎖帷子を貫いた細い短剣のせいで傷が深く、しかも出血で寒くなっていいはずなのに、妙に暑い。
(毒だ・・・!)
 呼吸が上手くできない苦しさに喘ぎながらも、なぜ背の高い草地が戦場に選ばれたのかサカキは悟り、一番大事なことを叫んだ。
「盾を掲げろ!!味方から矢が飛んでくるぞ!!!」
 事実、耳鳴りに混ざった豪雨のような音が、数秒後に降り注いできた。
「貴様、なにをする!?」
 矢を受けて愛馬が倒れた地響きを感じながら、サカキは女の癖に短い銀髪を、ぼんやりと眺めた。
「名のある・・・騎士と、お見受けする・・・」
 サカキは女を殺生しないと誓っていた。そして、彼女の兜が脱げた顔にも体にも、矢が一本も当たらなかったことに満足した。
「降伏・・・す・・・はぁっ、・・・わた、し・・・・・・ま、き・・・ぇ・・・・・・かはっ・・・ぶ、か、を・・・」
「ああ!わかったからしゃべるな!!」
「マエストロ!!」
 ひょいと抱きかかえ上げられ、その声が聞き慣れた副官のものだと、煮えたぎるような息苦しさの中でサカキは判断した。
「こら・・・ぜ・・・・・・まか、せ・・・」
 もう暑いのか寒いのかわからない。視界が暗く落ちていく。サカキはここで死ぬのだと感じたが、それほど怖いとは思わなかった。ただ、自分の暗殺に、何の関係もない部下と敵を巻き込んでしまったことが、申し訳なかった・・・。