誰よりも君の手を−2−


 日が落ちてから、玄関に響いた「ただいま」という太い大きな声を聞いて、それまで兄弟たちと打ち解けて、だいぶくつろげていたサカキの中に、ぴんと緊張の糸が張った。
 広いダイニングにぬっと現れた巨体を目の前に、サカキは奇妙な感覚に襲われた。それまでと違う緊張、困惑、納得、そして、明らかな気持ちの高ぶり。
(ああ・・・)
 まずいな、と内心で呟いたが、もう遅い。
「おお、いらっしゃい。サカキさんだな?ポスターで見たとおりの別嬪さんだ」
 子供達からいっせいにお帰りなさいと声をかけられた、名匠と讃えられる石工にして大工の棟梁は、ハロルドによく似た笑顔をしていた。
「はじめまして」
 口の中がからからに渇いて、サカキはそれ以上言葉が続かなかった。
 握手を交わした手は、大きく厚く、太い指は節くれだって荒れていた。日に焼けた肌、笑い皺の刻まれた目元、深い紫色の瞳、ふさふさした眉、高い鼻、頑丈そうな顎のライン、口髭に見え隠れする唇、腹に響くような太い声・・・
(参ったな・・・めちゃくちゃ好みだ・・・)
 挨拶に来ておいて、いきなり浮気の危機か。しかも恋人の父親に目移りするなど、われながら呆れる。相手は奥方がいて、子供が七人もいる働き盛りで、力仕事をしている身体は張りがあって、組み敷いたらさぞ・・・
(ちがーう!!!!)
 サカキは必死に違う方向へ思考を回転させ、ハロルドが年を取ったらこうなるんだと、自分に言い聞かせた。
「サカキさん?」
「はっ・・・な、なんだ?」
 きょとんとした表情のハロルドが隣にいる。
「大丈夫ですか?」
 サカキはぐったりしそうなのを堪えたが、うなずくのがやっとだった。この瞬間だけで、大量の製薬をやったかのような、多大な精神的疲労を感じる。
 サカキはそっと吐息を漏らして、すぐに始まった宴会の席に座った。
 料理はタニアやエミリアの手作りで、どれもハロルドの作ってくれる料理と同じ味わいがした。料理だけで、ちっとも他人の家にいる気がしなくなって、サカキは不思議な気分だった。
「で、サカキさんよ。式はいつだ?」
 飲みかけのビールを噴いて、サカキは盛大に咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「げっほげっほ・・・ごほっ・・・う・・・げほっ・・・」
 大きな厚い手にばんばんと背中を叩かれるが、鼻がツーンと痛んでサカキは言葉にならず、ハンカチで顔を抑えたまま、懸命に頷いた。
「なにやってんの、あんたたち・・・」
 つまみの皿を持ってきたタニアに、アレックスは結婚式の話をした。
「あぁ・・・え、できるの?」
「できないのか?」
 さも当然のように二人から視線を受け、サカキは涙目のまま、ようやく落ち着いてきた呼吸で言った。
「今のところ、公式にはできません」
「そうよねぇ」
「なんだ、つまらんなぁ」
 二人そろって残念そうな顔をするのを、誰かとめて欲しいとサカキは思った。ウエディングドレスはどっちが着るんだとか言いだされてはかなわない。
 自分がドレスを着るかと思うとぞっとするが、ハロルドなら案外いけるんじゃないかと思う。純白のドレスでブーケ片手に「サカキさ〜ん」などと能天気な笑顔で呼ばれたら・・・
(落ち着け・・・ッ!!)
 やっぱり、普段どおりブラックスミスの職業服を着ているほうが似合っているし、男の服を着ているほうがサカキは好きだ。
「融通のきかねぇことだなぁ」
「まあ・・・結婚して、何が変わるというわけでもありませんから」
「そりゃそうだけどよ」
 子供はできねぇしなぁと、アレックスは逞しい顎を擦りながら、ニヤニヤ笑う。
「サカキさんは、ハロルドのどこが気に入ったんだ?ブラックスミスったって、短剣の一振りも作れやしねぇだろ?ま、憎めねぇ性格なのは、母ちゃん譲りだけどなぁ」
「・・・どこ、と言われても・・・」
 思わず、下の兄弟たちにいじり倒されている、お兄ちゃん・・・・・なハロルドに視線が行く。
 サカキはハロルドのどこか一箇所を気に入ったから、恋人になったわけではない。にこにこ笑いながらサカキの後を付いてきて、呆れたり面白いと思ったりしつつも、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていた。
「一緒にいて、とても気が休まったので」
 たぶん、ハロルド以外の誰にも、サカキにそう言わせることはできないだろう。
「ふぅん。サカキさん、あんた家族は?」
「いません。両親は他界しました。兄とは連絡がつかなくて、どこでどうしているか・・・生きているのかすらも、わかりません」
「そうか。悪いこと聞いたな」
「いえ」
 これは覚悟していた質問だったので、用意しておいた答えをすんなり言えた。
「んじゃ、あんたも今日からうちの家族だ」
「え」
 まったく想定外なことを言われて、サカキはぽかんとアレックスを見上げた。
「え、じゃねぇよ。ハロルドの婿さんなら、俺の息子だ。悪かねぇだろ?」
 かかかと笑うアレックスから視線をそらせ、サカキは小さく「はい」と答えた。顔が熱くなっていると感じるのは、きっとアルコールのせいだ。
「ありがとうございます」
 それは、新たに両親とたくさんの兄弟をサカキに与えてくれた、アレックスと、ハロルドに・・・。


 首都のカプラ前に降り立って、サカキは大きなため息が出た。やっと見慣れた街並みに戻ってこられた安堵に、全身の力が抜けそうだ。
 そんなサカキの様子を、ハロルドはくすくす笑いながら眺めている。
「お疲れ様でした」
「・・・まったくだ」
「いきなり三泊四日はきつかったですか」
「最初の一日で精神力を使い果たした」
「すみません」
 ハロルドの笑顔は、ちっとも悪かったと思っていなさそうだ。
 時計塔に観光ツアーしたり、運河で水遊びをしたり、カプラ本社に見学に行ったりと、兄弟家族で過ごした時間は、思い返してみればあっという間だった。小さなシシリィには、帰っちゃヤダだと駄々をこねられた。
「・・・けっこう、楽しかった」
「そうですか。よかったです」
 持たされたお土産でいっぱいになったカートを、がらがら牽きながら、サカキはもう一度ため息をついた。
「でも、ハロと二人でいたほうがいい。俺を連れて行くのは、たまににしてくれ」
「え・・・」
 ハロルドが意外そうな顔をするので、サカキは眉をひそめた。
「そりゃあ、家族だって言ってもらえて、嬉しかったけど。俺は・・・」
「いえ、そうじゃなくて」
 ハロルドは躊躇った後、たっぷり二呼吸あけてから、口を開いた。
「・・・サカキさん、本当は俺の親父みたいなのが、好きなんじゃないですか?」
 表情が動いたのを、隠しきれなかった。ものすごい勢いで、後悔が胸にせり上がってくる。
「やっぱりなぁ。くそぅ・・・妬いた!自分の親父に嫉妬するなんて、なんか、変な気分だけど」
 がしがしと頭をかき回して、ハロルドが唸る。
「・・・なんでわかった?」
「ええ?だって、雰囲気違いますもん」
 そんなにあからさまだったかと、サカキは激しく落ち込んだ。慣れない環境もあったせいか、まったく普段の調子にならなかったようだ。
 どよんとした空気をかもし出すサカキに、ハロルドは苦笑いしながら付け加えた。
「大丈夫ですよ。俺と母さんぐらいしか気付いていないはずですから」
「っ・・・全然、大丈夫じゃない!ハロのおふくろさんに・・・」
「ああ、母さんなら、やっぱりうちの人はイイオトコなのねぇとか言っていましたよ?」
 地面にめり込みそうな勢いで脱力するサカキをよそに、「バカップルでしょ〜?」と、ハロルドはあっけらかんと言う。
「はぁ・・・でも、ちょっとショックだ。父さんに負けるなんて・・・」
「別に、親父さんのほうがいいなんて言っていないぞ」
「でも・・・」
「ハロルドと付き合う前、俺がどんな奴と寝ていたかなんて知らないだろ」
「う・・・」
 ハロルドが、しょぼーんと泣きそうな顔になる。そういえば、こんな話をするのは初めてだったか。
「そりゃあ、外見の好みなんて誰にだってある。だけど、俺はそれだけでハロルドと付き合っているわけじゃない。忘れたか?恋人らしい恋人は、ハロルドが最初だって言っただろう。俺がハロルド以外の野郎に、自分のケツの穴をつか・・・」
「わー!わかりました!!わかりましたから、こんな往来で言わないでくださいぃっ!!」
 ハロルドにさえぎられて最後まで言えなかったが、いいたいことは伝わったようだ。
「・・・俺だけ、特別なんですね」
「最初からそう言っている」
 真っ赤になったハロルドを引き連れて、サカキはやっと自分達のアパートに戻ってこられた。
「俺は、今のままの、能天気で可愛らしいハロルドが好きだ。でも・・・」
 満足している。これ以上望むものはない。それでも、甘やかすよりは、少しの刺激があったほうがいい。
「そのうち、親父さんみたいな男にもなるだろう?・・・期待している」
「はいっ」
 いつもの眩しい笑顔でハロルドが頷いたので、サカキは自宅に入る前にキスするのを許してやった。
 指を絡めるようにあわせた手は、まだ父親には及ばない。だが、サカキが信頼して命さえ預けられるのは、この若い手だけだ。