糖衣の花束‐9‐


 温もりと暗闇の中で目を覚まし、イグナーツは目の前にあるらしい物体に、ぺたぺたと触れた。なんだか馴染みがあるようなないような・・・・・・。
「起きたか」
「え!?」
 慌てたイグナーツの頭を大きな手がつかみ、鼓動のする温かいものに押さえつけてきた。
「アイマスクだ。カラーグラスはベッドサイドにある。俺がこの部屋を出るまで、それを外すな」
「え?あ、ぅ・・・・・・!?」
 頭の上から降ってきた声は、間違いなくイーヴァルで、つまりこの温かくて滑らかな肌触りの何かは、まぎれもなく人体で・・・・・・。
「ま、まって!」
「なんだ」
 ベッドから降りようとしていたその大きな温もりに、イグナーツは必至でしがみついた。
「もうちっと、このまま!な!?あと30秒でいいから!!」
「・・・・・・はあ」
 あまりにイグナーツがしっかりとしがみついているので諦めてくれたのか、イーヴァルはシーツをかけ直し、きっかり30秒だけ待ってくれた。その間に、イグナーツは胸いっぱいにイーヴァルの匂いを吸い込み、温かな胸にぐりぐりと額を擦りつけ、ぺったりと頬を付けて微笑んだ。
「・・・・・・もういいな?」
「うん、ありがと。へへへっ、満足」
 本当は、もっとずっとそうしていたかったが、イーヴァルに煩がれるのは嫌だった。
 イグナーツがイーヴァルに出してもらった服を着て入った広いダイニングルームは、ほとんど使っていないような殺風景さで、控えめなニュース番組の音声をBGMに、コーヒーの香りで満ちていた。
 アークスのルームにもオートクックシステムはあったが、イーヴァルのマンションについているシステムの方が、何倍も美味い物を出してくれた。ダイニングでさくさくぱりぱりのクロワッサンサンドをほおばりながら、イグナーツは正直うらやましいと心の中で愚痴った。なんなんだ、このパンのいい香りは、チーズとハムの美味さは。
 イーヴァルはコーヒーを片手に何かを検索しており、イグナーツは口の中の物を飲み込んでから聞いてみた。
「なにやってんの?」
「ケータリングサービスだ」
 ケータリングサービスと言うと、ここに食事を運んでもらうということだろう。いつもそんなことをしているのかと朝食の続きに戻ったイグナーツに、3Dモニターがつきつけられた。
「ふがっ!?ふぇーひっ!!」
「飲み込んでからしゃべろ」
「むぐ・・・・・・」
 そこには色とりどり各種ケーキが並んでおり、それをデリバリーするサービスのようだ。
「昨日食べ損ねたからな」
「うふふっ。んぐっ・・・・・・イーヴァって、意外と甘い物食べるんだな」
「嫌いではない」
 バースデーケーキはぐっちゃぐちゃになってしまったが、昨日のことを思い出して、イグナーツはニヤニヤと笑った。イーヴァルがイグナーツを助けるために、ケーキをミオラに叩きつけた瞬間は見損ねたが、クリームで真っ白になったミオラはなかなか滑稽だった。その姿で警備員に引きずられながら、まだわけのわからないことを叫んでいたので、あの時は笑えなかったが。
「なあ、それなんだ?」
 サービスの発注に戻ったイーヴァルの側に、細長い箱がおいてあった。ラッピングされていたが、少しくたびれている。
「ああ、昨日のパーティーで知り合いからもらった。やる」
「へ?」
 無造作にテーブルの上を滑ってきた箱を受け取り、イグナーツは何の変哲もない包装紙に包まれた箱を眺めまわした。
「イーヴァへのプレゼントじゃないのか?」
「いらん」
 せっかくのプレゼントなのにと思いながらも、ちょっと興味はあって、イグナーツは箱を開けてみた。
「あ・・・・・・・・・・・・」
「なんだ?」
 変な声を出して固まったイグナーツは、開けないで捨てた方がよかったかなと後悔しつつも、イーヴァの友達もよくわかっているんだと苦笑いをこぼした。
「俺じゃ使えねーな」
 開けた箱をイーヴァルの元へ滑らせ返すと、イーヴァルの唇が嫣然と吊り上った。
「あの男にしては、気の利いた物をよこしたな」
 箱の中身は鞭だった。しかも、スパンキングに使う平らなものではなく、先に棘のついた、危険な代物だ。
「棘はクリスタル製か?・・・・・・ほう、ディガーラの角か」
「うっわ、痛そうだな、オイ」
「クックック・・・・・・」
 添付書を片手に笑うイーヴァルに、イグナーツはげんなりと頭を抱えた。だがしかし、しばらくはピアッシング行為から離れてくれるだろう。あれは痛みもさることながら、吐きそうになって嫌なのだ。
「さっそく試してみよう」
「ええっ!?今日はケーキ食べるんだろ!?」
「お前が焔に予定を空けるよう申請してくれたおかげで、俺は今日丸一日フリーだ。時間はたっぷりある」
「ええええ・・・・・・」
 イーヴァルが上機嫌なのは嬉しいが、イコールで自分が痛い目にあるのは勘弁して欲しいとイグナーツは思う。思いはするのだが、これからは報酬なしでイーヴァルと付き合うのであり、そういうふうに選んだのはイグナーツ自身だ。
『・・・・・・では、会見場からの中継です』
「ふむ、時間だな」
「ん?」
 イグナーツがフルーツヨーグルトの器を持ったまま、ニュースを流すモニターに顔を向けると、見覚えのある人物が映っていた。
「あれ?焔さん」
 イーヴァルの義弟にして『レイヴン』の副社長、そして、イグナーツの元クライアントである焔が、昨日イグナーツも会った弁護士と一緒に、記者会見の席についていた。
「どうしたの?なんかあった?」
「なにかあったのは、昨日と一昨日だ」
 焔があそこにいて、社長のイーヴァルがここにいていいのかと、イグナーツは少し焦ったが、会見の様子を見ていて、自分たちのことが話題なのだと顔が赤くなってきた。
 焔たちの周りには、『アダージョ』の支配人、さらに『カリエド』の支店長という人までいて、事実をつまびらかにするべく、記者たちの質問に答えていた。
「俺たちだけでは、ミオラを芸能業界から抹殺することはできんだろう・・・・・・この手で殺してやりたいのはやまやまだが」
 腕を組んだイーヴァルが、少し悔しそうに眉をひそめている。
「しかし、こちらの被害を明らかにするだけで、やつのイメージダウンは避けられない。・・・・・・あの女は、よく自爆するからな。あとは、スポンサーが判断するだろう」
「裁判とか、するの?」
「いいや。俺たちは被害届と賠償請求を出すだけだ。不満ならむこうが訴えを起こすかもしれないが、裁判を起こしても、不利なのはむこうだ」
 こちらが被害者のまま、されど効果的なダメージをミオラに与えるべく、昨夜のうちにイーヴァルと焔は話し合っていたのだ。
「ミオラって、結局何がしたかったんだ?本当に、イーヴァのことが好きだったとか?」
「いいや。・・・・・・あれは自分が好きなだけで、その付加価値を他人に無償で要求しているだけだ」
 イーヴァルは忌々しそうに吐き捨て、そしてイグナーツを見てため息をついた。
「イグナーツの方が、アレに比べたら、だいぶ大人だ。あの女は、赤ん坊レベルだな」
「ふーん?」
 イグナーツはよくわからなかったが、イーヴァルはすごく大変だったのだろう。あの夜イグナーツにやつあたりするぐらいに、ストレスが溜まってしまったのだ。
「そうか、無限の欲求に対する無限の愛情って、そういうことなのか」
「なにがだ」
「ううん、こっちの話」
 クロトが言っていたことの例と思しきものが目の前にあり、イグナーツはしきりに納得してしまった。
 会見場では、壊されたピアスがミオラに贈られたものであり、その証拠に誕生石のアメジストが付いているという主張に対し、あれは紫ダイヤで男性に贈るつもりで購入されたものだという証言を『カリエド』の支店長が返していた。
「なんか大事になっちゃったなぁ」
「タイミングが悪かっただけだ。あの女が絡んでさえ来なければ、俺はお前とシチューを食べて、ピアスを付けていられた。・・・・・・あの疫病神が」
 悪魔みたいなイーヴァルに疫病神呼ばわりされるなんて、なかなかないのではないかとイグナーツは可笑しく思う。
 会見場での質問がイグナーツのことに及んで、イグナーツはその場にいないにもかかわらず、緊張して耳をそばだてた。名前は伏せられているものの、手のひらにうっすらと汗を感じる。
 イーヴァルの交友関係、その中のイレギュラー。女ではなく男で、友人と言うには親しすぎる・・・・・・。
『個人的な付き合いと言っても、程度と言うものがあるでしょう?』
『家族です』
『は?』
『家族と申し上げました。少なくとも私は、彼を実の弟のように思っております』
 毅然とした態度で言い切った焔に、イグナーツは息をすることも忘れた。それなのに、イグナーツが衝撃を受けているなどとは思っていないのか、イーヴァルはくすくすと笑っている。
「焔にしては、上手い答えだ。嘘は言っていない」
「イーヴァ・・・・・・」
「不満か?」
「ううん。・・・・・・なんか、色々飛び越えちゃった感じ」
 恋人とは、しょせん他人だ。家族と言っても、新しく作るとき、それは他人同士からのスタートだ。
「イーヴァ」
「なんだ」
 イグナーツはイーヴァルの隣まで行くと、自分の個人アドレスをイーヴァルの端末に送った。
「ありがと。これからもよろしく」
 イーヴァルの滑らかな頬から唇を離すと、イグナーツは自分の顎の下に硬い物を感じた。ひやりとした棘、そこから伸びるよくしなりそうな合皮の柄を、イーヴァルの手が握っていた。
「生意気な痩せ羊が。・・・・・・今日は存分に可愛がってやろう」
「痛くしてもいいけど、さっきみたいに満足させてくれよ」
「面倒なやつだ」
 イーヴァルに引き寄せられてしたキスは、少し苦いコーヒーの味がした。