ペルソナ特務機関 −2−


 警察官は、年に一度の射撃訓練が義務付けられている。真っ先に危険に対処する可能性があるために、重点的に訓練しなければならない交番勤務の巡査に比べて、デスクワークの多い官僚は訓練で撃てる弾数は少ない。
 それでも、真は人型の的の頭と胴に正確に当て、射撃の腕前もかなりのものだと証明した。
「堂に入った射撃姿勢だな。反動の逃がし方も上手い」
 後からかけられた声に、真は背の高い男を見上げた。鍛え上げられて引き締まった体躯の上に、アッシュ系の髪を短く刈った頭を載せた青年は、クールな顔立ちの中にある鋭い眼差しを、真と穴の開いたシューティングボードに向けていた。いつの間にか他の警官に紛れて、真田明彦が射撃場に入り込んでいたようだ。
「恐れ入ります」
「撃ち慣れているようにも見えるが」
「まさか」
 それまでは生真面目な表情を崩さなかった真だが、心に余裕があったせいか唇が笑みの形になった。明彦のあからさまな言い方が可笑しかったというよりも、仲間との思い出を懐かしく思ったのだ。
 真はヘッドフォンとシューティンググラスを外し、指先で明彦に耳を寄せさせると、周囲の騒音に負けそうなほど小さな声で囁いた。
「あまり私にまとわりつくと、公安や監察に睨まれますよ?」
「先刻承知だ」
 真面目な顔で即答する明彦に、真は仕方ないとため息をついて拳銃を片付けた。
「わかりました、お話を伺います」
 真は訓練終了の手続きを済ませると、明彦の車に乗った。盗聴や追跡の危険はないそうだが・・・・・・。
「そちらのリーダーから、許可が出たようだな」
「彼は私の身を案じてくれる、大切な友人です。・・・・・・あなたが自分の身を危険にさらしてでも私の立場を保護するというのなら、取引に応じてやってもいい、と言っていました」
「取引?」
 ずいぶん大上段に構えた物言いだと明彦は鼻で笑ったが、真も澄ました表情を崩さない。
「真田警視長、貴方は孤立無援の組織の中で、話の分かる仲間を欲している。私はストレスのない職場環境で、私の望みをかなえたい」
「君の望みとは?」
「より大きな犯罪者に食い物にされる、弱い立場の人たちを助けることです」
 そのために、真は警察官僚になったのだ。明彦の狙いは定かではないが、余計なことに巻き込まれるのは、正直御免被りたい。
「それに、私はもうペルソナを使えない」
「わかっている。こちらも、いつ出現するかわからないペルソナ関連の事件を待って、有用な人材を遊ばせる気はない。・・・・・・無気力症って、聞いたことがあるか?」
「名前と症状だけは」
「あれは、無理やりペルソナを抜かれたか、シャドウにペルソナを害された人間だ」
「ペルソナを・・・・・・ぁ!」
「心当たりがあるようだな」
 隣からチラリと向けられた明彦の視線を感じながら、真は思わず口を覆った。真は知っていた。ペルソナを失った人間が、どうなるのか。
(廃人化!ペルソナである本人のシャドウを殺害されると廃人に、無理やり抜かれると無気力症に・・・・・・なるほど、似ているわ)
 かつて自分たちはその危険を恐れたが、恐れずに実行した人間もいた。そして、その状態は、外側・・・・・・現実世界では、なにが起こっているのか判断しづらい。
「多くの事件の中から、いち早くペルソナ案件かどうかを判断したい・・・・・・そういうことですか」
「察しが良くて助かる。被害を拡大させないためにも、また、俺や君がそうだったように、命がけで戦わざるを得ない若者を支援するためにも、特務機関は必要だ」
「まあ、お考えはわかります・・・・・・」
 その特務機関が活きていたら、自分たちは怪盗団として活動できたかどうか、真は苦笑いを浮かべるしかない。
「しかし、困ったな。たしかに俺の階級はそれなりだが、君を保護するどころか、かえってやっかみを招いてしまいそうだ」
「ええ、そうでしょうね。私を使いたかったら、私が動きやすいように、必死で取り計らってください」
「なんと高い買い物だ。しかし、貴重な人材をむざむざ手放すなどできん。私は君の立場や環境に便宜を図り、君は必要に応じて私の招集に参ずる。それで構わないな?」
「はい、取引成立です」
 真は澄ました態度のまま、リーダーの笑顔を真似て口角をきゅっと上げて見せた。

 新島真との取引が成立した後日、明彦は真から連絡を受けた。
『警視長、カレーはお好きですか?』
「カレー?嫌いじゃないぞ。肉がたくさん入っていれば、文句なしだ」
『では、今夜お付き合いいただきたいところがあるのですが』
 時間はある、と返事をすると、迎えに行くと返ってきた。仕事上がりに待ち合わせて、明彦は真の指示通りに四軒茶屋まで車を走らせた。
「どこへ行くんだ?」
「カレーとコーヒーの美味しい店です。夕食はまだでしょう?」
「そうだが・・・・・・」
 コインパーキングに車を停め、四軒茶屋駅近くの路地を歩く。夕暮れ時の住宅街は、灯りがともるほど、影が濃くなっていくようだ。
 『純喫茶ルブラン』と看板の出たドアを真が開けると、顎髭を生やした初老の男が、カウンターの中から声をかけてきた。
「いらっしゃい。やあ、真ちゃん久しぶりだね」
「こんばんは、マスター。ご無沙汰しています」
 親し気に挨拶をかわして足取りの軽い真を追いかけて、明彦も店に足を踏み入れる。コーヒーとカレーのいい香りが、レトロな内装の店内に充満していた。
 カラコロン、とドアベルを鳴らしてドアが閉まり、数歩歩いた明彦はふと振り返るようにあたりを見回した。
(気のせいか?)
 季節外れな冷気を感じたのだ。三つあるボックス席はすべて埋まっている。一番奥にはラップトップパソコンが置かれ、誰かキーを叩いている。真ん中の席には、妙齢の女性が二人、華やかな笑い声を上げており、一番手前の席には若い男が座り、雑誌をめくっている。・・・・・・絵画の写真が並んでおり、芸術雑誌のようだ。
 たったったと駆けてくる足音が途切れ、明彦の後ろで勢いよくドアが開いた。ドアベルが喧しい音を立てる。
「わりぃ、遅くなっ・・・・・・とお!?おっさん、邪魔!」
「ぁ、すまない」
 店に飛び込んできた明るい茶髪の男に、剣呑な表情で威嚇するように睨まれ、明彦は店の奥へと歩みを進めた。
「遅いぞ」
「だから悪かったって!あ、俺カレー大盛とコーラ!」
「俺もカレー大盛。コーヒーは食後で」
「はいよ」
 出入口側の席を占拠した青年たちも、ここのカレーが目当てのようだ。明彦がカウンターに座った真の隣に座ろうとして、そこに黒い毛玉が青い目で見上げてくるのを見つけた。
「猫?この店は、猫を飼っているのか」
「マスターの猫じゃないんだけど、時々ね」
 口の周りと足先と尻尾の先だけ白い毛の黒猫は、にゃーにゃーと明彦に向かって鳴き、席を退いてくれそうにない。明彦がその隣の席に座ろうとすると、ラップトップパソコンの影から若い女の声がした。
「モナー、やっぱダメっぽいなー」
「にゃにゃー」
 黒猫は明彦をちらりと見上げると、ひょいとスツールから飛び降りて、一番奥のボックス席に飛び乗っていった。
「ご注文は?」
「カレーセットふたつ。コーヒーで」
「はいよ」
 真の注文を受けてマスターが厨房に入っていくと、入れ替わりに皿を持った若い男が出てきた。エプロンをした店員は明彦たちの後ろを通っていく。
「お待たせしました。季節のフルーツパンケーキ、生クリームマシマシです」
「ぃよっしゃー!これよこれ!ハードな仕事上がりのご褒美だわぁ」
「美味しそう!」
 きゃっきゃと楽しそうな声があがり、ここはデザートも美味いのかと目を瞠る。
 さっきの店員がもう一度フロアに出てきて、今度はカレーの香りが明彦の後ろを通り過ぎていく。お待たせしました、の声にかぶって、明彦たちの前にもカレーの皿が置かれる。
「いただきます。・・・・・・んん、いつ来ても美味しいわ」
「ありがとうよ。美人に褒められるのが一番嬉しいね」
「もう、マスターったら!」
 明彦もスプーンを取ってカレーを口にする。ピリッとした辛みの向こうに、なんとも豊かなコクと鼻に抜けるスパイスの爽やかさがある。ほくほくした具材にも充分味がしみこみ、奥深い旨味としっかりしたボリュームにより、腹の中から温もりと幸福感がやってくるようだ。
「美味い」
「そうでしょ」
 しばらく無心にカレーを貪っていると、コーヒーの準備をしている店員の視線に気が付いた。無造作に跳ねる黒髪と黒縁の眼鏡のせいで、表情はよく読めない。
「なにか?」
「以前、そういう人を見かけたので」
 店員の視線が、明彦自身ではなく、明彦の手袋をしたままの手だと気付いて納得する。
「ああ、俺の手は、ちょっと怖がられるからな」
「そうか、ボクシング・・・・・・」
 店員の呟きは小さすぎたが、明彦にはそう聞こえた。たしかに明彦の顔に似合わない、殴り慣れた無骨な手はボクシングによるものだが、なぜそれに気付いたのか。
「じゃあ、あとは任せたぜ。火の始末だけは、きちんとしておけよ」
「はい」
「真ちゃんの上司さん、ゆっくりしてってくれ」
 そう言って客を残して店を出ていくマスターに、明彦はびっくりして思考を中断させた。
「えっ・・・・・・」
「知っておかねばならない事と、知らないでいた方がいい事もある。マスターはそれをわかっているのよ」
 カレーを食べ続ける真は声を低め、あらためて明彦に鋭い眼差しを向けた。
「ひとつ、聞きたいことがあるんです」
「なんだ?」
「桐条財閥の極秘研究について。貴方もそれに関わっていたんじゃないですか?桐条グループの現総帥、桐条美鶴さんは、同級生ですよね?」
「確かに美鶴は同級生だし、彼女もペルソナ使いだ」
 へえ、と目を瞠る真に、明彦はさらに続けた。
「俺が知っているのは、美鶴の祖父がペルソナに関する誤った使い方を研究した末に大事故が起こり、俺たちの世代がその後始末に奔走したということだ。ペルソナの研究に関しては、他にも幾人もの科学者が携わり、その中には倫理に反するものもあった」
 明彦は湯気のおさまってきたカレー皿に視線を落とす。失われた仲間との思い出、心の傷痕、現実に明彦に立ち塞がる社会という困難・・・・・・明彦は倦まず弛まず歩み続けたつもりだが、その手から零れ落ちていったものも少なくない。
「ペルソナは人間の心。時に敵は、多くの人間が無意識のうちに生み出した、強大な存在だったこともある。以前、稲羽市で起こった連続殺人事件も、ペルソナが関わっていたようだ。俺が警察官になってから携わったものでは、他者のペルソナを複数取り込んで力を得ようとした事件は、凄惨を極めた・・・・・・」
「にゃッ!?なぅなんにゃー!にゃにゃー!」
「・・・・・・なんだ?」
 突然鳴きだした黒猫に驚く明彦を、真がじっと見つめた。
「やっぱり、わかりませんか」
「モルガナは、複数のペルソナを扱えるのは、ワイルドの素質がある者だけだ、と言っているんです」
「は?」
 明彦も知っている。複数のペルソナを扱えた友人は、『特別な人間』だった。
 そして、そう答えた黒髪の店員は、黒縁の眼鏡を外して、長い睫毛に縁どられたアーモンド形の目をほころばせた。
「はじめまして、真田元参事官。それとも、ペルソナ使いの先達として、真田先輩、とお呼びした方がいいですか?」
 写真で見た捕えられた男子高校生の面影を残した笑顔が、明彦の前にいた。地味な店員の姿はそこにない。強く輝く眼差しは、獅童代議士への予告映像で見たものと同じ。
「君が・・・・・・君たちが!」
 店内にいる客全員が、明彦を見つめている。なぜ真に誘われたのか、予想は付いていたが、まさか総出で迎えられるとは思わなかった。
「以後、お見知りおきを」
 コーヒーカップから立ち上る湯気の向こうで、柔らかそうな赤い唇が、ニィッと吊り上がった。