マスカレードの後に


 ミンミンジージージャンジャンと煩い音を、窓を閉め切ることで多少追い出し、暁は使い込まれた自分の机に向かった。エアコンは切っていないが、時折空気の入れ替えをしないと息が詰まりそうだ。
「・・・・・・・・・・・・」
 この部屋に戻ってきたとき、たった一年いなかっただけで、ずいぶん子供っぽい趣味の、狭い部屋だと感じた。屋根裏での生活が板についたというわけでもないだろうが、模様替えをした後の自室は、東京でもらった思い出の品が飾られているだけで、それ以外は簡素で落ち着いたものになった。
「はぁー。快適、快適」
 夏休みの課題を片付ける視界の隅に、腹を上にして、ベッドで大の字に伸びている黒猫が映る。鼻と口の周りと、手足と尾の先だけ白い、黄色い首輪をした、人語をしゃべる黒猫。覆面をした紳士に見えなくもないが、どことなく「ほっかむりをした鼠小僧」にも見える。猫なのに。
「腹を冷やすなよ、モルガナ」
「へん!タオルケット蹴飛ばして寝てる奴に言われたくねー!」
 暁が蹴とばしたタオルケットが、モルガナに飛んでいったらしい。それで明け方モルガナの声に起こされかけたのかと納得し、課題の解答に戻る。
「なーなー。みんなに会いに行くの、明後日だろ?」
「うん」
 それまでに、この課題を片付けたいのだ。
 怪盗の仕事もない夏休みで暇なはずなのに、ちょくちょく呼び出されるせいで、宿題計画がだいぶ遅れた。ぜひとも今日中に片付けたい。
「久しぶりだよな。あぁ、アン殿は元気かなぁ」
 くふふふ、と笑いながら、モルガナは暁のベッドの上で、ゴロゴロと転がる。楽しみで仕方がないらしい。
 暁は集中して課題に取り組み、時間も忘れてあと二ページというところで嫌な音が耳に入り、気力が尽きた。
「誰か来たぞ」
 モルガナの青い目を見返し、暁はうなずいた。外に乗用車が停まり、誰かが家に入ってくる気配がする。母親が自分を呼ぶ声がして、暁は立ち上がった。
「いま行く。・・・・・・モルガナ?」
「ついて行ってやる」
 わざわざ涼しい部屋から出なくてもいいのに、と思ったが、ベッドからしなやかに飛び降りてきたモルガナの、言葉にしない優しさを感じて、そのまま自室のドアを開けた。
「物怖じしない猫だって思われているよ」
「猫じゃねえ!」
 他人には「ニャー」としか聞こえていないはずなので、間違ったことは言っていない。
「あき、ら・・・・・・」
「なに、母さん?」
 事件が起きた時も悲しませたが、最近の母は、暁が帰ってきた数ヶ月前よりも顔色が悪く、やつれてしまっているようだ。彼女の苦しみを直接取り除く手立てを、いまの暁は持っていない。
「やあ、暁。元気そうだな」
「大きくなったねえ」
「・・・・・・どうも」
 どやどやと家に上がり込んでくる、妙に媚びた笑顔の中年や老人たちは、入れ代わり立ち代わりやってくる親戚だ。冤罪による判決が覆り、逆転無罪になって帰ってきた暁を、彼らは我が事を自慢するように、あるいは腫れ物に触るように、ちやほやともてはやした。・・・・・・その心の底は、見え透いていた。
(今日は多いな・・・・・・)
 暁は母に目配せをすると、額縁に収められた『欲望と希望』が飾られた応接間に、自ら進んで老人たちを通した。少しでも、母を遠ざけておきたかった。
「暁ちゃん、優秀なんだって?編入した学校でも、トップの成績だったそうじゃないか」
「えらいねえ」
「東京の進学校で、ずいぶん揉まれてきたんじゃない?」
 勝手に盛り上がる大人たちを前に、暁は眼鏡が欲しくなった。伊達眼鏡はもう必要ないと、こちらに帰ってきてからはケースに入れっぱなしなのだが、こうも恥ずかしげのない連中は見るに堪えない。ややうつむき加減で、適当に相鎚を打っておべっかを聞き流していたが、茶を運んできた母に向けられた嫌味に、思わず膝をつかんだ手に力がこもる。
「大変だったわねえ。一年も・・・・・・保護観察、だったんでしょう?」
「家も両親もそろっているのに、親元から離れるなんて、ねえ」
 やめろと言いたかったが、最初に父親から止められていたので、暁は唇をかむ。理不尽な暴言を、両親は罰でも受けるように、甘んじて受け入れていた。
「結局無罪だったのに、なんで何もしなかったんだ。暁の無罪の証拠を集めたのだって、東京の友達だったんだろう?高校生がだ」
「立派なお友達よねえ」
 たしかに暁の無罪を証明するために、怪盗団の仲間たちをはじめ、多くの人たちが駆けずり回り、声を上げてくれた。だが、そもそも獅童が自白しなければ、暁の無罪を証明することは不可能だった。
 ひとりで東京に着いたばかりの頃は、なぜ正しいことをした自分が罪を着せられ、放り出されなければならないのかと、酷く鬱屈していた。裏切られ、見捨てられ、どこに行っても邪魔者扱いだった。どこを向いても、理不尽に彩られているように感じていた。
 しかし、いまならばわかる。ただの高校生が太刀打ちできるような相手ではなかった。うその証言があり、警察は獅童の言いなりなっているのでは、多少生活にゆとりがあっても一般家庭である来栖家には、どうしようもなかったはずだ。むしろ、地元を離れたからこそ、暁はペルソナの力に目覚め、友ができ、最終的に無罪を勝ち取れたのだ。
(だから・・・・・・)
 当時の両親がどう思っていたのか、暁を信じなかったのか、前科者の烙印を押された厄介者だと思っていたのか、そんなことは、もうどうでもよかった。暁が離れていた一年間、両親だってこの地で耐えてきたはずなのだ。
「友達の高校生でもできたことを、親が出来なかったなんてねえ」
「こんなに立派な子を、たった一人で都会に放り出したなんて、それでも親かね」
 言い返せずにうつむいて立ち尽くす母を横目に、暁は素早くスマホを操作して電話をかけた。ダイニングにある家の電話が着信メロディーを流しだし、暁は母を見上げた。
「学校の担任かもしれない。三者面談があるから・・・・・・適当に合わせて」
「え?ええ・・・・・・」
 ナンバーディスプレイには暁の名前が出ているはずで、母も気付くだろう。母が応接間を出て行って呼び出し音が途切れると、暁は親戚たちに向きなおった。
「俺をだしにして、母さんと父さんをいびるの、やめてくれ」
「な、なにを急に・・・・・・」
 絶句する大人たちを、暁はいっそ冷ややかに睨んだ。彼らに立ち向かう闘志などいらない。必要なことをはっきりと言う度胸だけが必要だった。
「あんたたちだって、俺を犯罪者だと、恥さらしだと言っていたじゃないか。俺が無実だと訴えた時、少しでも冤罪を晴らそうとしてくれたか?それなのに、いまさら母さんたちを責める資格が、自分たちにあるとでも思っているのか!」
「う・・・・・・」
「あ、暁ちゃん、そんな・・・・・・」
「わかったら出ていけ!自分を棚に上げて他人を攻撃することが、どれほど恥知らずなのかわかったなら、二度と俺の両親に暴言を吐くな!」
 普段無口で大人しい暁の剣幕に腰を抜かしたか、きょろきょろと互いの顔を見合わせ合うばかりの大人たちに、暁はもう一言言ってやろうと息を吸い込んだ。
「暁、先生がいらっしゃるそうよ」
 母の「適当に合わせた」声に、暁は口を噤み、うなずいた。
「申し訳ありませんが、これから暁の先生が見えられるので、ご遠慮いただけますか。これでも受験生でして、暁は毎日勉強に忙しいんですよ」
「そ、そういうことなら・・・・・・」
 そそくさと帰り支度をして出ていく大人たちを眺める暁の表情は、もう何事もなかったように消えていた。
 ぶつぶつと悪態をつく声と、慌ただしく乗用車が去っていく音が遠ざかると、ようやく母のほっとしたような気配を感じた。
「よく言ったな。あのジジババども、よっぽど暇なんだろうぜ」
 鼻の峰にしわを寄せたモルガナに、暁は悲し気に首を振った。
「塩撒いておきたい」
「暁・・・・・・」
 顔色の悪い母に、暁はもう一度首を振って、来客用のグラスを片付け始めた。
「ありがとう」
 それは片付けを手伝っていることになのか、それとも意地悪な親戚たちを一喝したことになのか・・・・・・暁は前者と取ってうなずいた。
「ごめんなさい・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 消え入りそうな謝罪の言葉に、暁は返す言葉がなかった。
 イセカイナビがまだあったなら、暁はメメントスに勇んで降りて行っただろう。だがメメントスが消えてなくなってしまったいまでは、地道に現実世界で対応するしかない。
「・・・・・・話がある。夜、父さんが帰ってきたら、一緒に」
「ええ、いいわ」
 暁は自分用の麦茶と、モルガナ用のおやつを両手に受け取って、自室へと引き上げた。
 あと少しだと課題を片付け始めた暁を、おやつのカツオに「にゃはー!」とかぶりついていたモルガナが、じろじろと見ている。
「・・・・・・なに?」
「なあ、なんであのジジババたちは、お前の両親に意地悪なことをするんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 暁は少し考えて、たぶん、と前置きをして、自分の成績がいいからだと答えた。
「なるほど。自分の子や孫よりも、お前の出来がいいからか。一度は前科が付いたお前が、実は無実で頭も良くて、助けてくれる友達も大勢いたから、うらやましくてしょうがないわけだ。でもお前には何の非ないから、自分たちと同じようにお前を遠ざけた両親くらいしか、攻撃できるところがないわけだ」
 暁はうなずき、小さくため息をついた。
 自分の無実が証明され、地元に帰ってきたとき、両親は喜んでくれた。一度ついたレッテルも、「冤罪を被ったが、戦って無罪を勝ち取った優等生」という仮面に、徐々に書き換えられていっていた。
 だがそのせいで両親が貶められるのは、まったくの予想外だった。まだまだ自分の感性は子供なのだと再確認させられたが、この状況を解決するいい方法は、もっと思い浮かばなかった。
(俺がいない方が・・・・・・)
 それが一番いいように思えたし、そうするべきだと、さっき決心した。
「・・・・・・ふう」
「お、終わったか?」
 ノートや参考書を片付け、暁は椅子に座ったまま伸びをする。これで心置きなく、東京に遊びに行ける。
「・・・・・・どこに行こうかな」
「みんなと遊びに行く場所か?ワガハイは美味しい物がある所がいいなぁ」
「いや・・・・・・大学」
「なんだよ、つまんねーな」
 つまらないと言われても、そろそろ志望校を決めなくてはならない。もちろん、県外の大学を希望した。これ以上、両親を苦しめるわけにはいかないから、今夜にでも、自分が高校を卒業したら、親戚たちに何も言わず引っ越すよう説得するつもりだ。暁に対して申し訳ないという気持ちで、あんなことに耐えているというのなら、その分、学費や一人暮らしの生活費として支援してもらいたかった。
 問題は、暁自身が、将来何になりたいかを、まだ決めかねていることだろう。
 病に苦しむ患者たちを助けられる医者は?社会の闇から真実をスッパ抜く記者は?将来を担う子供を教え導く教師は?国会議員になって、もっと大きく社会を動かし、より多くの困っている人を助けられるようになるだろうか・・・・・・?
(・・・・・・ちょっと柄じゃないかな)
 喫茶店やショップを開いて、誰かの居場所になることが出来るかもしれない。カウンセラーになって誰かの悩みを聞いて解決の手助けをするとか、自分の得意なことをひとつ極めてみるのもいいだろう。
(得意なこと・・・・・・)
 コートの裾をひるがえして駆け抜けた、いくつものパレス。仲間たちの苦悩と泣き顔。かつて自分たちを追い詰めたライバルの・・・・・・作り笑顔。
「・・・・・・・・・・・・」
 ワイルドの素養を持つトリックスターは、両手に余る仮面を付け替えることが出来た。だが、暁自身は、自分がしたいから仲間に寄り添った。暁がいたから頑張れた、そう言ってもらえたことは数えきれない。誰かの支えになることは、悪人の歪んだ欲望を盗むことと同じくらい、重要で大切なことだと心に刻んでいた。
 暁は、誰かを助けることが正義だと思っている。自分の手段を正義として、自分の心が赴く先に正義を見出さなかった彼は、復讐を成した後、何をよりどころにし、どう生きていくつもりだったのだろう。
「・・・・・・・・・・・・」
 ヤメ検の弁護士は頼りになるのよ・・・・・・元やり手検事の美人は、そう言って笑っていた。彼女の妹などは、怪盗をやっていた時から、将来は警察官僚になりたいと言っていた。どちらも、闇に隠れた悪を暴くものだと。
(怪盗を辞めた、探偵、か・・・・・・)
 アルセーヌ・ルパンも、怪盗の傍ら、いくつもの名前と顔を使って、多くの謎を解いて人々を助けてきた。
 しかし暁の脳裏には、「人気者の名探偵」の彼が、作り物ではない嫌そうに歪ませた顔も、同時に浮かんだ。「なんて悪趣味なことをしやがるんだ」そう言われそうだ。間違いなく、言われるだろう。
(それは・・・・・・すごく面白そうだ)
 にやり、と唇が笑みの形にゆがんだ暁を、モルガナがやや呆れたように眺めている。
「なにか、いいこと思いついたな?」
「まだ決まったわけじゃない」
 それでも、暁のクスクス笑いは止まらない。
 たくさんの知識を得て、多くの知己を増やし、誰かの悲鳴も巨悪の横暴も見逃さない存在になろう。そのための進学にするべきだ。
(いっそのこと、T大いくか。また真の後輩になるな)
 怪盗をやっていたノリで探偵をやるなら、法律を知っておくのは不可欠だ。無知からやらかして、今度こそ監獄に繋がれるのは御免こうむる。
 屋号は「Arsène」なんてどうだろう。いや、ここはストレートに「Joker」がいいか。依頼人に美味いコーヒーを出して、毎度の様に驚かれるのだ。
(小説みたいだ)
 自分が描く夢物語に、暁はとうとう声を出して笑い始めた。
「おい、気持ち悪いぞ」
 モルガナに本気で嫌がられて笑いをおさめ、暁は眼鏡ケースを開けた。そこには、黒縁のファッショングラスが収まっていた。
(俺たちは、怠惰な人間から、神から、世界を盗り返せた・・・・・・)
 この世は大衆に望まれて、怪盗の手に落ちたのだ。変幻自在に顔を変える、この世界が、いまの暁たちの舞台だ。
「ショータイム・・・・・・!」
 小さな呟きは、いつか叶える自身の夢へのプレリュードになるだろう。


―― 今度は、誰の罪を盗もうか。

  ―― 大丈夫。代わりに希望を置いていけばいいだけさ。