人獣心中 −9−


 真っ白な獣の姿に驚いた祐介は、すぐに人間の姿を取り戻したが、ちょっとしたことで耳や尻尾が生えたり、油断すると狐の姿になってしまったりで、自在に自分の身体を制御できる昂を笑わせた。
 本来の姿を取り戻そうとしているところだから、慣れれば制御できるようになると昂は言うが、同時にそろそろ義理を果たしてこないかと水を向けられた。
「母の同輩という人か」
「そう。彼・・・・・・彼女かな?彼女が祐介を助けてくれと俺のところに来なかったら、祐介は今でも斑目のところにいたはずだ。彼女の顔を立てる意味でも、一度挨拶をしておくべきじゃないかな」
「誰にだ?」
 依頼人に礼を言うのはわかるが、顔を立てる相手とは誰だと首を傾げた祐介に、昂はいいにくそうに、少し顔を伏せて言った。
宇迦之御魂神ウカノミタマノカミ・・・・・・今回の依頼人や祐介のお母さんが仕えている稲荷大明神だよ」
 祐介自身はまだ身の振り方を決めてはいなかったが、進む可能性のある所属先を見ておくのはいいと昂は勧めた。そのいつにない真剣な表情は、かえって祐介を不安にさせたが、あくまで可能性のひとつ、義理を果たすためだ、と自分に言い聞かせ、祐介は首を縦に振った。
 その日、取り戻した掛け軸や愛用の忍者刀などを手荷物に、尻尾が出せるように昂に仕立て直された着物を着た祐介の足元へ、白い大きな獣が姿を現した。以前、昂を殺そうとした祐介に噛みついて止めた個体なのだろう。あのときは見えなかったが・・・・・・。
「貴方が・・・・・・俺を助けてくれと頼んだのか」
「然り」
 普通の狐にしては大きな体つきをした神使は、優美な歩調で昂の前まで来ると、深々と平伏した。
「善き人に感謝を」
「やめてくれ。俺は依頼を受けて、報酬のために遂行しただけだ」
「報酬に見合わぬ傷を負ってもか。成功の見込みが低いと申したのは、お前ではなかったか。お前が削った命の対価ほどを、我は用意できぬ」
 低い獣の唸り声が紡ぐ言葉に驚いて見やると、勘弁してくれと言いたげにくせ毛をかき回す姿があった。
「だから、いいってば。最初にアンタが提示した報酬だけもらえればいい」
「しかし・・・・・・」
 神使がすべていう前に、明らかに変わった空気に、祐介はほとんどとびすさった。温かいか冷たいかと言えば、温かい。硬いか柔らかいかと言えば硬い。明るいか暗いかと言えば、眩しい。楽しいか怖いかと言えば、恐ろしい。
「・・・・・・・・・・・・」
「あれが・・・・・・」
 強い眼差しを向けたまま表情を変えない昂を横目に、祐介は初めてみる超越した存在に慄いた。
「我が主は、お前の働きに褒美をとらすと仰せられた」
 ごとんごとん、という重い音に振り向けば、屋敷の玄関口に金銀を詰めた千両箱がひとつふたつ・・・・・・みっつ。豪商の蔵にさえ、おいそれとは置かれないような財貨の山だ。それをこの神は、ぽんと昂に放ってよこした。
「・・・・・・なんのつもりだ」
 冷え切った昂の硬い声に、祐介は背を震わせた。いままで昂のこんな声を聞いたことはなかった。憎悪か、怒りか・・・・・・そう考えて、祐介はやっと、自分にはなじみがあっても、いままでに昂から向けられたことのない感情に思い当たった。
 明確な殺意を具現化したように、昂の背後にざわりと立ち上る禍々しい闇は、頭が高く、翼を広げ、長く鋭い爪を伸ばしていた。じゃららりと鎖を引きずりながらも胸を張るその姿は、青白い炎越しでも、気品と邪悪さを存分に知らしめた。
「俺の依頼人はアンタじゃない。それとも、口止め料か?俺が失敗したら、知らんぷりするつもりだっただろう?くだらないことをする前に、そこの子狐を死ぬまで養ったらどうだ」
 吊り上がった眦は侮辱に対する怒りを越えて、いっそ静かなほど昏く沈んでいた。化粧をすれば女にも見間違えられそうな美貌が、艶やかな唇をもって神に対してさえ易々と暴言を吐いて捨てた。
「失せろ」
 呆れたように大きな気配が去ろうとするのに引きずられ、祐介は慌てて昂に手を伸ばした。世話になったのに、恩を返すこともできず、自分はまだ礼のひとつも言えていない。
「待って・・・・・・まだ俺は・・・・・・昂!昂ッ!!」
 その驚いた表情が、嬉しそうに、はかなげに微笑んだのを、祐介は自分の無力さを痛感しながら遠くに見た。かすかな唇の動きが見える。
(・・・・・・!!)
 そうだ、土蔵に吊るされたあの時から、昂はずっと雑言に紛れ込ませて同じ思いを伝えていたのではないか。また自分は何も気付かず、なにも行動できないで、別のものに囚われてしまうのか。この感情の正体もわからず・・・・・・名前すら、まともに呼んでいなかったのに。

 自分以外の気配が消えて、家の中に戻ろうとした玄関の小上がりには、バラバラの銭貨が積み上がっているだけで、眩い金銀が溢れた千両箱は消えていた。これでいい。
「あぁあ。もったいねぇなぁ。あれだけあれば、一生遊んで暮らせたぜ?」
 少年のような甲高い声に振り仰げば、屋根の上から八割れ白足袋の黒猫が昂を見下ろしていた。
お師匠さんモルガナ・・・・・・」
「ま、オマエらしいっていえば、オマエらしいな。これでまた、コウを育てたワガハイの株も上がっちまうぜ」
 にゃふふふ、と黒猫は青い目を細めて笑い、先の白い長い尾を揺らめかせた。
「いつから見ていたんだ」
「いつからだっていいじゃねぇか。面倒なイナリの依頼を片付けた弟子を労いに来てもいいだろ?しかし、よかったのか、帰しちまって」
 昂が祐介に好意を抱いていたことなど、この師匠にはお見通しなのだろう。昂はずっと決めていたことだと頷く。
「俺は道を外れたけど、祐介はこれから本道に戻るんだ。本来の道を知らないで、外れたままでいるのは危険すぎる」
「理屈の多いやつだ。それはそうと・・・・・・オマエの主の仇は見つかったか?」
 昂は首を横に振る。
 昂の肉体は、かつての昂の主のものだった。謀略により呪いの依り代となりかけた彼を助けたいという一心が、気が付いたら二個一と言っていい、この状態になっていたのだ。人でもなく、畜生でもない。生きるために「外道」に成り下がらせてしまったが、あのまま見殺しに・・・・・・人として死なせた方がよかったのかどうか、昂にはわからない。
「・・・・・・そうか。今度も違ったか」
「でも、近い匂いを感じた。なんていうか、陰湿な・・・・・・まわりくどいやり方が似ている」
 鼻梁にまでしわを寄せそうなほど険しい顔をした昂は、祐介には見せなかった憤怒をみなぎらせた。
「見つけたら、どっちもただじゃおかない」
「フフン。まあ、なんにせよ、よくやった。新しいペルソナも手に入れたようだな」
 軽やかに宙に踊った黒猫を受け止め、昂は親愛の心を込めてしなやかな毛並みを撫でた。
「合体か・・・・・・いくら猫は九生を持つと言われていても、オマエ、そのうち本当に死ぬぞ?」
「生き物なら、いつかは死ぬよ」
「やれやれ。誰かオマエの手綱を適当に引いてやるヤツはいねぇのか」
「・・・・・・・・・・・・」
「まあいい。万が一、ヤバいことになったら、いつでも戻ってこい。じゃあな」
 黒猫は昂の返事も待たず、ひょいと昂の腕の中から飛び出して消えた。昂の手の中に残った猫型の紙片も青白い炎を上げて掻き消え、そこにははじめから何もなかったような沈黙と、立ち尽くす昂だけが、ただ一人残った。


 祐介が稲荷の元へと去ってからも、昂は変わらずゆるゆると街の移ろいを眺めていた。真に叱られながら土蔵の修理をして、事件の全容と結末を報告して呆れられた。また時には佐倉屋で手伝えと店主につかまったり、時には虐げられた人の恨みを晴らすべくオタカラを盗みに行ったりしていた。
 あの日からいくつかの昼と夜が過ぎ、強くなってきた日差しに照らされた庭には、紫陽花が青や紫の装いを競わせ始めていた。
(蒸し暑い・・・・・・)
 うちわを片手にだらしなく寝ころびながら、何気なく眺めた庭の土が、ぽつぽつと色が変わり始めた。
「雨?」
 洗濯物を取り込まなければと飛び起きるが、空は明るく晴れている。しかし、空を覗き込んだ昂の目には、絹糸のような雨垂れがさらさらと煌いて見えた。
「!?」
 熱気と雨にけむる生垣の向こうに、青い鬼火がゆらゆらと浮き、それは数を増しながら、昂の家の周りを回り始める。慌てて玄関から飛び出し、普段は開けることのない門の閂を外した。武家屋敷の門は普通、公的な客が来るときしか使わない。しかしいま、門の外には開門を待つ気配が連なっている。
 意を決して昂が門扉を少し開けると、そこには黒留袖の女が深々と頭を下げていた。昂はどことなく、彼女の雰囲気を知っていた。
(あの神使・・・・・・!?)
 軒下で小銭を積み上げ、同僚の忘れ形見を盗り返してくれと平伏していた、あの気配である。
「なん・・・・・・」
 昂は身を乗り出すように扉を引き開き、彼女の後ろに連なる人々に目を疑った。
 紋付き袴の男が朱塗りの傘を掲げ、その下には角隠しを被いた白無垢姿が立っている。その後ろには延々と晴れ着の男女が続き、天気雨の蒸し暑い空気に鬼火が漂っている。
(花嫁、道中・・・・・・なんで・・・・・・)
 一目で狐の嫁入りだとわかる。だが、なぜ昂のところに来たのかわからない。稲荷の厚意を固辞した昂に、いまさらなんの嫌がらせかと表情を険しくしたが、昂よりも、黒留袖の女よりも早く、白無垢姿が呆れたように低い声を発した。
「いつまでも待たせるな」
「その、声・・・・・・!」
 唖然とする昂の目の前で、角隠しが少し動き、白く細い顎が不敵に微笑むのが見えた。
「まさか、祐介・・・・・・?」
 神使と外道では格が違いすぎる、もう会うことはないと思っていた男が、昂の前に立っていた。
「お前と共にゆくなら死んでもいいと、俺に思わせたんだ。責任を取ってもらうぞ」
「あ・・・・・・」
 しゃなりしゃなりと歩み出てきた白い手を、昂は迷いなく取った。施しなど受けないが、奪ってくれと飛び出してきたオタカラを取り逃すほど、昂は高潔な人格を気取ってはいない。
「本当にいいんだな?」
「くどい」
 花嫁には似つかわしくない顰め面で睨まれ、昂は堪えきれない笑みをこぼしながら、その薄い唇に口付けた。

 昂、縁ありて狐と祝言を挙げ候―――。

 その便りが方々に届くのは、もう少し先のこと・・・・・・。