129 麗しきディアフラ


 エースが牽く大山羊車は、旧ニーザルディア領の古い街道を軽快に走っていく。道が整備されなくなって久しいのだけれど、雑草もろくに生えず、乾いた風が時折吹き抜けるだけの街道には、小さな石が転がっているくらいだ。
「旦那様、ダンジョンが見えてきました」
「おっ、もう着いたのか」
 旧ニーザルディア領を走り始めて二日目。
 かつてはニーザルディア第二の都市と言われた、ヨーレス城塞都市跡地。現在は、僕が出した高難度ダンジョン『ヴェサリウス機工邸』となっている。
 大山羊車が緩やかに停車し、スハイルが扉を開けてくれるのを待って、僕は外に出た。
「ふおぉ……んあッ!? なんだあれ?」
 『ヴェサリウス機工邸』を含む迷宮範囲の外側を取り囲むように、黒い靄が揺蕩っていた。
「ミストの大軍、でしょうか?」
 呆然としたハニシェの声が降ってきたけど、僕も答えようがない。
「迷宮に攻撃しているのでしょうか?」
「攻撃してるっていうか……逆に引き寄せられている、のかも?」
 眉間にしわを寄せたスハイルに、僕は首を傾げながら、予想を言ってみた。
 実際、迷宮が攻撃されているなんて警告は受けてなかったし、迷宮が“障り”を吸収する性質がある以上、ミストを掃除機のように吸い寄せている疑いはある。
 もしかしたら、大森林の入り口に出した『老エルフの悪夢』のまわりも、似たような状態になっているかもしれない。
「……近寄らない方がいいと思うな! スルーしよう。そうしよう」
「はい。いくら旦那様のブローチがあっても、俺は行きたくないです」
 僕の判断に、ソルも渋いものを噛んだような表情で頷き、スハイルとハニシェも反対はないようだ。
 “障り”を吸い取られて発狂しているミストの群なんて、どんな残留思念をぶちまけているか、わかったもんじゃないよ!


 大量のミストにたかられている『ヴェサリウス機工邸』を遠巻きに通り過ぎた僕らは、それから少しずつミストを見かけることが多くなった。やはり、迷宮がない所では、あちこちに発生しているらしい。
 やつらは進んで襲ってくることはないが、その場から動くこともないので、通行の邪魔だったりする時は、消滅させなければならない。
「撃ちます!」
 ハニシェはしっかりと踏ん張って、魔導銃を構えている。その銃口から撃ち出された魔法弾は、狙いあやまたず十メートル先のミストに着弾し、火属性石の煌きと共に炎を上げた。
「いいよ、いいよ!」
 カシャコン、というポンプアクションの音に続いて、再び発砲。着弾。
 うねうねとミストが近寄ってきたところで、ソルの氷属性剣アイスソードが一閃。
 ミストはよじれる人体らしい影を震えさせながら、空中に掻き消えていった。
「どう?」
「問題ありません」
 スハイル、ソル、ハニシェの三人に、体調不良などの影響はなかった。
「ブローチに入れたスキルは、ちゃんと働いているみたいだね。それに、用意した武器も、よく効いている」
 これなら、もっと奥まで進んでも大丈夫だろう。
「ミストの数は増えてきたのに、害獣がいないですね」
「たぶん、害獣になる生物がいないんだと思う」
 剣を納めながら疑問を呈するソルに僕は答え、“障り”による長年の影響にため息をつきたくなった。
「小さな虫だって、食べ物がなければ生きていけない。この地では、植物の根すら枯れているんだ。放っておけば、そのうち砂漠になってしまうだろうよ」
 菌糸類やバクテリアすら生存ができなくなれば、まさに不毛となる。一度そうなってしまっては、そこから動植物を再生させるためにかかる時間や労力は、計り知れない。
「……急ごう」
「「「はい」」」
 僕は時々ダンジョンを出現させて“障り”を吸収させながら、かつての王都ディアフラを目指した。もしかしたら、こうなった原因の手掛かりが、少しは残っているかもしれない。


 僕たちはそれから、エースの大山羊車で一週間も走らせ続け、やっと巨大な廃墟群にたどり着いた。
 かつては濠だったと思われる溝に水はなかったが、橋が落ちていて通れない。街中もすんなり通れるとは思えなかったので、大山羊車を箱庭に戻しながら、僕は空堀を飛び越えてディアフラ側へ迷宮の扉を繋げた。
「わぁ……ゴーストタウンっていうか、もうすでに遺跡みたいになってるな」
 木や布だったものは形を保っておらず、地面は積もった砂土で厚く覆われ、虚ろな石の瓦礫ばかりが、延々と続いている。
 しんと静まり返って害獣の気配はないが、ミストらしき影が、あちらに一体、こちに一体、といった調子でたたずんでいた。恐ろしいのが、それらの影が、いままで見た中でも明らかに人の形に近かったことだ。
 僕らは用心しつつも、早歩きで街路を辿って行った。
「……深き港、愛しいねぐら。陽光に跳ねし人の声。星が示し、花の香りが誘う。とわに栄えよ、麗しきディアフラ」
 埃っぽい風に乗って、スハイルの囁くように小さな声が廃墟に染みていく。目の前の死んだような景色とは、ずいぶん違ううただが、僕もこの詩は知っていた。
「『英雄王ローポーの詩文』にある賛歌だね」
「そんな名前がついているのですか?」
「ロロナ様から買い取った、古い詩集に載ってたよ。スハイルこそ、なんで知ってるの?」
「大人の誰かが吟じていました。船乗りの歌だと」
 そういえば、スハイルがいた愚者の刃は、かつては海の近くにいた人たちだと聞いている。もしかしたら、この辺りにも、縁があったのかもしれない。
「ディアフラには、港があるんですか?」
「うん。王都ディアフラは、バダァド川の河口を挟んで、南北に広がっているんだ。僕らはいま、ディアフラの南側にいるよ」
 数カ月前にオルコラルトの南で初めて海を見たハニシェは、大陸の北にも海があるという地理が不思議なようだ。
 実際、この大陸は北極を含んでいるらしく、ニーザルディア国の北限は、人を拒む厳寒の凍土だった。
 かつて栄えた王都ディアフラは、西に開けた湾を有していて、そこへ流れ込んでいるバダァド川は、東のプルタンド山脈を源としているらしい。
 僕が進もうとしているのは、北をプルタンド山脈に、南をガトロンショ山脈に挟まれた、広大なトルマーダ砂漠。ガトロンショ山脈はライシーカ教皇国の背骨だけれど、直接聖地を攻められるほど、僕は自信過剰じゃない。トルマーダ砂漠を東へ一直線に抜け、その先の国々に迷宮を出すことで、教皇国を手一杯の状態にするのが目的だ。
「とりあえず、川の北側を目指してみようか」
 いま僕たちがいる南側は庶民が暮らしていたエリアだが、ディアフラの北側には、王宮や公官庁、貴族の屋敷や大商会の館があったそうだ。
 王都を横断しているバダァド川には、中途半端な橋が架かっていた。岸に近い所にしか石橋がなく、崩れた支柱らしい瓦礫の山がひとつだけ、川の真ん中で水面から顔を出していた。
「大きな馬車もすれ違えそうな、立派な橋だったのに、壊れてしまったんでしょうか?」
「そうかもしれないけど、元々なかったんじゃないかな。きっと、船で川を行き来するために、橋を動かす必要があったんだよ」
 残念そうなハニシェに、僕は錆びついた跳ね橋の機構を指差してみせた。
「ニーザルディア国は、ずいぶん進んだ技術を持っていたんだなぁ」
 海側だけでなく、川岸にも船着き場や荷下ろしができる場所があり、土手沿いに広い道路が造られていた。
 半ば埋もれてしまっていたが、下町でも街路や建築物が、よく計画されて造られていたように見える。
(政争に敗れた高位聖職者が、ニーザルディアに落ちのびて取り立てられたって説は、本当だったのかもな)
 信憑性のある歴史書もなく、リンベリュートの下々に伝わるニーザルディア時代の話は、ほとんど眉唾なものばかりなのだけれど、中には一片の真実が紛れていることもある。
 そのひとつが、英雄王ローポーに仕えた、大賢老シュナミスの存在だ。シュナミスの出自は不明で、百歳近くまで生きたとされる長い寿命のせいで、本当に一人の人物だったのか、称号や襲名のように複数人を指しているのかはわからない。ニーザルディアを統一したローポーとその一族に長く仕え、さまざまな助言をしたと言い伝えられている。
(シュナミスが教皇国出身で、大量の稀人の知識を持っていたのなら、ニーザルディアの発展に説明が付く)
 シロにシュナミスに関する情報を提供させればすぐにわかることではあるけれど、いまは他にやることや調べなければならないことが多い。
 歴史のロマンに浸るのは、もう少し落ち着いてからでもいいだろう。