アンコール


 その年は、病篤いとして退位していた前国王グレアムと、長きにわたってエルフィンターク王国民の心を支えた大聖女クレメンティアが相次いで亡くなり、国を挙げて喪に服す時が長くなった。
 訪れる者のいない母の墓前に立ち、ルトー公爵を継いだダニエルは物思いにふける。
 結局彼女は何をしたかったのか、兄弟の中で一番長く彼女を見ているはずの自分にも、ついぞわからなかった。
(早くに母を亡くし、厳格な父の下で厳しく育てられた反動だったのだろうか……)
 華やかで冷ややかで奔放でありながら、社交界を渡る手管に長けていた美しい実母を、ダニエルはそれほど嫌いではなかった。大抵の貴族子女には、多かれ少なかれ似たような性質はあるものだ。そして教養と思慮を備えた彼女は用心深く、少なくとも何も考えられない砂糖菓子頭ではなかった。
 若い時は王太子妃候補にも挙がり、国内外からの縁談も多かったと聞く。だがそのすべてを、父である前ブランヴェリ公爵ヘリオスが蹴り、弱小貴族家出身のアーダルベルトと結婚させた。不思議と、仲は悪くない夫婦に見えたが……。
(貴女はただ、貴女が思う自由を求めただけなのですか?)
 もちろん、祖父と父と長兄を殺された怒りはあるが、当時もその後も、信じたくないという気持ちが強かった。いったい何がそこまで彼女を駆り立てたのか。ダニエルから見て彼女は、間違いなく、どこにでもいる貴族の女で、良くも悪くも貴族の母親だった。
(いや……私がそう思いたがっているだけか。平凡な人であってほしかった、と)
 最後まで、親子ではあっても理解できなかった、心に寄り添うことを許されなかった、という点に、少々の寂しさが残る。だがそのもどかしさも、ダニエルはここに置いて行こうと思う。
(ブランヴェリ公爵家は、この地から去りました。もう、戻ってくることはないでしょう)
 父祖の墓前を訪れるのも、自分だけになるだろうが、それは残された次兄としての責務であろう。
(おさらばです、母上。せめて、女神のみもとでは安らかに)
 ダニエルはサーシャ・ロズ・ブランヴェリの墓前から踵を返し、待たせている馬車へと歩いて行った。
 ルトー公爵を継ぎ、国王ルシウスの下で宰相として辣腕をふるう彼には、過去よりも未来にとって重要な多くの仕事が、処理されることを待っていた。


 フライゼル侯爵家の中で一番気合が入っているのは、もちろん夫人であるクレオだ。式の日まで指折り数え、明日屋敷を出発するという日になって、増々せかせかと落ち着きがない。
「母上……」
「だって、トリアード……!」
 まだ仕事中の夫や、旅の準備に忙しい侍女達に代わってなだめに来た息子に呆れられるが、可愛い養女の晴れ舞台なのだ。まだ彼女の母となって数年と経っていないものの、できるだけのことをしてやりたかった。
 デアリングモスの絹糸で最高のウェディングドレスを作るために、セントリオン王国で一番のメゾンに話をつけたし、最も信頼する靴職人にもブランヴェリ公爵領へ出張してもらった。
「あぁ、ドレスはちゃんと仕上がったのかしら。小物だってアクセサリーだって、足りないものはないかしら」
「兄上たちが、そんなヘマをするはずないではありませんか」
「でも、あの子たちは男でしょ」
「言い換えましょう、サルヴィア様のお姿をお忘れか?」
「……そうだったわね」
 養女の夫となる青年が、これまで人生のほとんどを女の恰好をして生きてきたことを思い出し、クレオは少し落ち着いた。サルヴィアには優秀な侍女頭がついていたし、キャロルにはフライゼル家から侍女としてカロリーヌが行っているはずだ。
「トリア、あなた話し方がジェリドに似てきたわね」
「ふふっ、ありがとうございます」
「褒めたわけではないのだけれど……」
 ジェリドは優秀過ぎて冷たい印象の長男だったが、ブランヴェリ公爵領で暮らすようになってから、ずいぶん表情が豊かになり、親しい相手には感情を読み取らせるようになった。それも、クレオにとっては嬉しいことだ。
「あぁ、リューズィー様、お導きください。そして当日は、どうか雨を降らせないでくださいませ!」
 熱心なアスヴァトルド教徒であったはずのクレオが、今ではすっかりリューズィー派になっていることに、トリアードは苦笑いをかみ殺しながら感謝するのだった。自分のせいでジェリドを死なせてしまうと心を病みかけた彼女を救ったのは、間違いなく聖者とリューズィーの女神官だったのだから。


 休む暇もないほど、一日中忙しく働き、ヘシカは倒れるようにベッドに突っ伏した。温かな三度の食事と清潔な共同風呂はあるものの、それでも体力が追い付かない。
(つ、かれた……)
 ダンジョンの情報が一般公開されたとたん、村には冒険者が押し寄せ、まだ三つしかない宿屋は、毎日毎日どこも盛況だ。きっと、ヘシカと同じような状態の女中は多いに違いない。
「……」
 いつもなら、気絶するようにそのまま寝てしまうのだが、寝返りを打った時に窓の向こうに明るい月が見えたせいか、少し目が冴えてしまった。
(私、まだ生きているのね)
 昼間忙しくしている時は忘れられるが、一人になると、いまだに考えてしまう。
 ヘシカというのは、最近自分でつけた名だ。親にもらった名前は、捨てざるを得なかった。その名前の女は、公的には処刑され、死んだことになっている。
 大罪を犯して捕まり、昼も夜もわからない牢屋で、水を飲む気さえ起きずに死を待っていた。しかし、そこから引きずり出され、窓のない馬車で向かった先は、刑場ではなかった。
 糸目の商人に密かに引き渡された後、付き添ってくれた気弱そうな外見の青年から、自分が自由になったことを教えられた。

―― 死ぬも自由、生きるも自由。
    アンタを憐れに思った聖者くんがくれたのは、そういう自由さ。

 これ以上生きるつもりなんてなかったのに、目の前に安全な道が開けると、現金なもので、ヘシカは平民として生きることを選んだ。連座させられるはずだった親族もみな、ヘシカとは別の場所で生きているそうだ。
(ごめんなさい、クリス……)
 自分では恋人の死を思いとどまらせる存在にはなれなかった……自ら死を選んでしまった恋人を、そんな自分本位の無念を晴らす復讐理由にするのは止めよう、そうヘシカが涙ながらに納得したのは、琵琶ウードの低くふくよかな旋律に心が揺さぶられたからだろうか。
 自分は王族を狙った大逆の罪人であり、確約された死を王族に撤回させるなど、まずありえない事だ。もちろんヘシカは、表向きには死んだことになっている。しかしそれとは別に、生存の道を用意させるなど、聖者とはそれほどの影響力を持つ者なのか。せめて道連れにしてしまうはずだった親兄弟の命を救ってくれた恩返しはしたいと申し出ると、ここリューズィーの村を紹介された。
 魔境の瘴気を掃った聖者が復活させた、水神リューズィーを信仰する村で、近くにある『カイゼルのダンジョン』の前哨基地となっている。『カイゼルのダンジョン』は、リューズィーの眷属であるダンジョンマスターが、一階の神殿でお祈りを要求しているという変わったダンジョンだが、恐ろしいほど高価なドロップ品を得られる魔獣が多いと評判だ。そういう理由で冒険者がたくさん来るため、人手不足な宿屋では、従業員が広く募集されていた。
 毎日が慌ただしく過ぎていくが、心に蓋をして王城で侍女として働いていた時よりも、よほど温かな気持ちでいられた。
(私、もう少しだけ、生きていくわ……)
 また明日も朝が早い。ヘシカの瞼は眠気に逆らわず、柔らかく閉じていった。


 日時を指定して呼び出されたノーツブロー辺境伯エドガーは、居心地のいい重厚な雰囲気のリビングにて、持ち込んだワインを昼間から酌み交わしていた。
「ンン〜、味も香りも素晴らしいですねェ。ミスタ・エドガーの好みは、大変趣味がよろしいです」
「ありがとうございます、オーズオーズ。気に入ってもらえてよかった」
 爵位と領地を継いで間もなく、領内にダンジョンが出来上がり、その対応に追われていたが、唯一救いだったのは、ダンジョンマスターがエドガーと同じく酒が好きで、思いがけず話が合ったことだろう。たとえその人が、髑髏メイクの死神だとしても。
 『エマントロリアダンジョン』の調査を視察した際、出入り口の魂保護アイテム交換所とは別にできた供物台を調べていたら、異国風の服装をした黒髪の幼女が突然現れ、「一番偉いのは貴様じゃな!」と小さな手に掴まれ、一瞬でダンジョンのコアルームに連れていかれたのだ。ダンジョンマスターであるオーズオーズも、まさかエイェルがお供え物欲しさに領主を連れ込んでくるとは思わず、あっけにとられていた。
 その後、『エマントロリアダンジョン』とそれを擁するノーツブロー辺境伯領との、立場を踏まえた円滑な意思疎通が可能になったので、けっして悪い事ばかりではなかったのだが。
「例の麻薬密売ルートが、ついにわかりましたか」
「ええ。まったく、我が領地も舐められたものです」
 元神殿騎士のガウリーが偶然発見した、ノーツブロー辺境伯領でのメラーダの秘密取引であるが、産地であるディアネスト王国と大神殿がボロボロになった影響か、エドガーが調べ始めた時には、すでに流通が途絶えた後だった。
 だが、なぜ南のディアネスト王国で産出された物が、わざわざエルフィンターク王国の北辺であるノーツブロー辺境伯領を介していたのか、その理由はわかった。
「遊牧民たちのテリトリーは、長らく不干渉でしたから……。もう、そんな事を言っている場合ではなくなりましたが」
 遊牧民たちが暮らす大陸の北端には、夏の間だけ使用可能な港が作られ、北極圏を跨いだ先の別大陸への海路が拓かれていた。聖地アスヴァトルドは、エルフィンターク王国を中継することでセントリオン王国に睨まれる危険を回避して、自国を含めた世界中にメラーダを売りさばいていたのだ。もちろん、同じような港は他にもある。産地であるディアネスト王国の南端、港町バーレークなどがその代表だ。
「メラーダの毒薬を作っていた薬師の一人も捕らえましたが、レシピはもっと広がっているとみていいでしょう。ルシウス陛下も、撲滅に尽力されていますよ」
「健全な肉体に、必ずしも良質な魂魄が宿るとは限りませんが、わざわざ不健全になりたがる肉体に宿る魂魄が良質である可能性は低いです。実にナンセンス。大きな損失です」
 この場合、オーズオーズが言っているのはエネルギー源としての品質であり、性質のことではない。エドガーはそれを、必ずしも理解しているわけではないが、オーズオーズの目に宿る光が、大地さえ凍らせる大寒波よりも冷たい事を見て取っていた。
「オーズオーズ! そろそろ時間か!? って、また酒を飲んでおるのか! 儂にもよこせ!」
 ばたーんと大きな音を立てて、両開きのドアが開き、ケモミミ幼女にしか見えないエイェルが飛び込んできた。
「リトルレディには、まだ早いですよ」
「むきー!」
「お邪魔しております、エイェル様」
「おおっ、エドガーも来ていたか。うむうむ、貴様もよく見ていくのじゃ! ついに、儂の神像が飾られた大神殿ができたらしいからな!」
 エイェルは遠慮なくオーズオーズの膝によじ登り、テーブルに置かれた魔道具に短い手を伸ばした。これは数日前に、『永冥のダンジョン』に住む自称天才魔道具師から届けられたもので、ランクの高い魔石を消費する代わりに、遠くの場所を音声付きの映像として映し出すことができた。
「早く始めるのじゃ! 儂がポチッとするのじゃ!」
「はいはい」
 オーズオーズが支えてやり、エイェルの小さな指が魔道具のスイッチをいれた。
「ほおおぉぉぉ〜!!」
 エイェルが目を輝かせ、エドガーも息を呑んで、空中に映し出された映像を見詰める。オーズオーズが室内を暗くすると、それはより一層鮮明に見えた。
 白亜の大神殿、その中央には女神アスヴァトルドが、向かって左には水神リューズィーが、そして右側には八頭身美女となったケモミミ尻尾付きエイェルの神像が飾られている。
 神々の前に若い男女が進み出て、互いに愛を誓う。それを見届ける眼鏡をかけた大神官、そして、多くの家族や友人、数えきれない領民たち。歓喜の嵐が、そこにあった。
「皆さん、幸せそうですね。魂が輝いていますよ」
「おめでとうございます、大公殿下」
 ブランヴェリ大公とその伴侶を祝福する人々の中から、エドガーはふと、幼児を肩車した大柄な男の隣で、こちらを確認するように微笑んだ銀髪の青年と、目が合ったような気がした。