幕間 ある没落貴族の平穏


 一日の仕事を終えたガロードは、厩舎に馬たちを預けて、『家族』で暮らす小さな借家に戻った。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
「おかえりなさいませ、父さま!」
 迎えに出てきた中年女の足元を、小さな女の子が猫のように走り抜けてくる。
「まあっ」
「ただいま、サラ。家の中で走ったら危ないじゃないか。シュザンヌが転ぶところだったのだから、彼女に謝りなさい」
「あ……ごめんなさい」
 素直に謝る少女に、シュザンヌは仕方なさそうに微笑んだ。
「次は、気を付けましょうね、お嬢様。さあ、夕食の準備をいたしますよ」
「はーい!」
 サラは元気に返事をして、シュザンヌについていく。ガロードはそれを横目に、二階の一室へと足を運んだ。
「おかえりなさい、ガロード」
「ただいま。体調はどうだ、あ……マリエール」
「ええ、悪くないわ。貴方こそ、一人で背負いすぎて無茶をしないで。怪我なんてしてはダメよ」
「ああ」
 椅子に座って儚げな微笑を浮かべた女の視線は、やや定まらない。彼女は生まれつき、あまり目が見えなかった。
「食事の時にも話すが……年が明ける前には、引っ越すことになると思う」
「わかりました。うふふ、新しい町を作るなんて、心が躍りますわ」
「苦労を掛けると思うが」
「いいえ。落ちぶれ、逃げ隠れしている、なんて気分よりも、よほどいいことよ。……私たちの方こそ、貴方に苦労を掛けているわ」
「いや……もうこの話いいか」
「そうね」
 お互いに言い出したらきりがないと、質素な平民の服を着た二人は苦笑いを浮かべた。


 マリエールは長女、ガロードはその下の長男として、エルフィンターク王国のフーバー侯爵家に生まれた。
 マリエールは神聖魔法と回復魔法の才があり、神殿に入れば頭角を現したに違いないが、弱視であるという事だけで父親が厭い、他にもっと良い縁組だってあったはずなのに、多額の結納金を積んだブラック伯爵家へと輿入れさせてしまった。容姿が醜いと言われていたブラック伯爵令息の顔を見ても、マリエールならわからないと思われたのが、最大の理由だろう。
 一方、ガロードは跡取りとして期待を受けて育ったが、学院を卒業していざ領地経営に乗り出そうという時になって、意外なところから妨害を受けた。それは、昔からフーバー家に仕えている者たちだった。彼らは当主が領地経営を投げだしているのをいいことに、領地の利益を私物化していたので、いまさらガロードに介入されたくなかったのだ。
 父に勝手に決められた結婚相手とガロードは、さいわい相性は悪くなった。二人で根気よく社交や領地のことを考えていた時は、しあわせだった。ただ、環境が良くなかったのだろう。妊娠中に高熱を出し、母子ともにあっけなく逝ってしまった。
 ガロードが落ち込んでいる間に、ガロードの言う事よりも、長く仕えてきた家人たちの言う事を重んじたフーバー侯爵は、何の罪もないガロードを廃嫡してしまった。そして、次男だからと真面目に領地経営を学んでこなかったイシュターヴが暫定跡取りとなったため、邪魔者がいなくなった家人たちは、もろ手を挙げてイシュターヴを歓迎した。
 廃嫡したのだからさっさと家から追い出せばいいのに、フーバー侯爵はなぜかガロードを屋敷にとどめ、使用人のような暮らしをさせていた。家人の監視があって逃げ出すこともできず、なぜこんなことをするのかと不思議に思ったが、三男のリエトが答えを教えてくれた。
「きっと、自分よりも出来のいい兄さんが虐げられているのを見ると、安心するんだよ。それに、兄さんが目の届かない所に行ってしまうと、自分の不出来さがまわりに知られると思っているんじゃないかな」
「そんなことで……」
 たまに帰省するリエトだけが、屋敷の中でガロードの味方だったが、そのリエトも戦死した。安全な後方支援だと思っていたのに、実際は激戦の係争地防衛任務だったらしい。ろくに軍務経験がない、まだ学院を卒業したばかりの、十九歳だったのに。
 弟の死を悲しむ間もなく、フーバー侯爵家は領地と財産を没収された。これによって、散々ガロードの邪魔をしていた家人たちのほとんどが解雇された。領地も王家直轄となったから、残った者もこれ以上の不正はできないだろう。かつての領民たちが、少しでも良い暮らしができるといいのだが、ガロードには今まで同様、どうすることもできなかった。
(せっかくだから、新しい領地に行くか)
 魔境に新領地を賜ったものの、父であるフーバー侯爵が直接統治できるとは思わない。ガロードはチャンスとばかりに立候補したが、許されなかった。
「都合のいい事を言いおって。ブランヴェリ家の小娘と結託して、この家を乗っ取る気だな!」
「どちらが都合のいいことをおっしゃっているのですか」
 もはや呆れを通り越して、ガロードはこの家を諦めてしまった。
 イシュターヴは結婚したものの、妻と一緒に遊びまわるばかり。父も再婚相手とその子供たちに甘い顔をするばかりで、もう財産など残っていないことに気付いていない。
 妻と弟の墓の前で、早急に脱出の決意を固めたところで、ふと姉のことを思い出した。嫁ぎ先のブラック伯爵家だが、当主が戦死したことで断絶したはず。彼女は今どこにいるのか。それを調べたくとも、ガロード自身は父の許しがなければ屋敷から出ることもできない。
 そこで、一計を案じた。
「父上、マリエール姉上が、ブラック伯爵家の財産を持っているのではありませんか? 探してまいりたいのですが」
「うむ、そうだな。行ってこい」
 ツケが払いきれなくなってきたフーバー侯爵は、あっさりとガロードの外出を認めた。
 そこからのガロードは早かった。妻の形見の宝石類を、指輪一つ残して売り払い、その金と身ひとつでフーバー侯爵家を飛び出した。
 そして、学院時代に得た知識と知己を頼って、姉を探し当てることに成功したのだ。

 マリエールは娘のサラと、侍女のシュザンヌ一人だけを供にして、旧ブラック伯爵家の領地にある教会に身を寄せていたが、最近は神殿のスキャンダルもあって、楽な暮らしとはいかなかった。しかし、女ばかり、それも女主人であるマリエールは視力に問題がある。教会を出て一般人として暮らすのも難しかった。
 そこにガロードが転がり込んできたのは、マリエールにとってもまさに渡りに船であった。
 マリエールとガロードは夫婦と偽り、サラとシュザンヌを連れて、フーバー侯爵家の手が及ばない北へと逃れた。


 エルフィンターク王国の北の端、マロア地方はノーツブロー辺境伯領にもぐりこんだガロードたちは、そこでエマントロリア遺構がダンジョンになったことを知った。
「これはいいタイミングだ。商業ギルドでも冒険者ギルドでも、仕事があるだろう」
 ひとまず領都バラードに腰を落ち着けると、ガロードは学生時代に取った冒険者資格の更新をした。
「家を追い出されたんだ。苗字を削ってくれる?」
「いいんですか? 一度消したら、よほどの理由と証明書類がないと戻せないですよ?」
「いつまでも未練があるみたいで、恥ずかしいじゃないか」
「……わかりました」
 これで平民の身分証を手に入れたガロードは、まず領主が募集していた荷運びの仕事に就き、エマントロリアへの道を覚えた。そして辺境の町ナローアで、運命的な出会いをした。
「……なんて美しい」
「は?」
 商業ギルドの職員は怪訝な顔をしたが、ガロードにはその二頭の馬が、神々しく光り輝いて見えた。
「ただの荷馬ですが?」
「いや、こんなに立派な馬は見たことがない」
「はあ?」
 その二頭の馬は王都ロイデムから幌馬車を曳いてきて、そのままこの町で売られたらしい。
「買った。曳いてきた車もあるなら、一緒に買う。ついでに商人の登録もしてくれ」
「はあ……」
 その仕事で得た金がすべて消えたが、ガロードは大満足だった。
「お前たちは神馬ではないのか? 商業ギルドも見る目がないな」
 栗毛と鹿毛の、どこにでもいそうな荷馬だったが、ガロードはせっせと世話をして領都に連れ帰った。フーバー家の屋敷に閉じ込められていた時期に、馬丁の仕事までさせられていたのを、これほどよかったと感じたことはなかった。

 荷馬車を手に入れたガロードは、今まで以上に荷物を運んで働き、エマントロリアダンジョンの側に新しく作られる町に、『家族』で引っ越すことができた。
 流れ者、新参者でも、新しい町の最初期入居者であれば、古参扱いだ。町の建設に携わったガロードは、十分に古参の資格がある。ガロードは相変わらず運送業を続けていたが、貴族に応対できる礼儀作法をもっていることから、商業ギルドの職員にならないかと声をかけられていた。
 さらに、医者や神官が少ない町では、マリエールの魔法は重宝される。彼女は新しく建てられた冒険者ギルドの片隅で、小さな診療所の職員として雇われることになった。
(やっと、落ち着いて暮らせるな)
 貴族の跡取りとして生まれ、民の生活を護って広い領地を運営していくつもりだったが、人生わからないものだ。
 ガロードは決別した実家がある方角から目をそらし、首から下げた紐の先にある、亡き妻の形見を握りしめた。家族は失ったが、『家族』だけは護り抜いていくと、固く決意するのだった。



「……はぁ」
「はーっはっはっはぁ! そこな小娘! 力が欲しいか!?」
「いらないわ」
「なっ、なんでじゃ!? いま、ため息をついておったではないか」
「わたくしは力ではなく、お友達が欲しいの。この町には、大人ばかりなんだもの」
「う、うむ?」
「わたくしはサラ。あなたは?」
「よくぞ聞いた。儂こそが、エイェルじゃ!」
「まあっ、厄災神様と同じお名前なのね」
「いや、儂がその厄災し……」
「ねえ、エイェル、わたくしとお友達になってくださいな」
「えっ!?」
「……嫌ですの?」
「い、嫌、では、ないが……」
「では、決まりね!」
「え……なぜじゃ? どうしてこうなったのじゃ? ちょっと待つのじゃ、サラ! 耳と尻尾を隠さねば、人間どもの所になど行けるか!」
「こっちよー!」
「あんまり遠くまで行くと、オーズオーズに怒られてしまうのじゃぁ〜!」