幕間 ある聖騎士から見た聖者の姿
アイザック・ガウリーにとって、この数ヶ月は、それまでの数年間に比べて、波乱という点では同じでも、その明度は信じられないほどに正反対だった。
家族を失い、地位と尊厳を奪われ、命までも弄ばれようとした時、虚ろな気配から放たれた男の声に従った。 (あれこそが、啓示というものだ) 差し伸べられた救いの手は、そこで途切れることなく、次々と太く力強いつながりにからめとられ、自分の意思とは関係なく引き上げられていった。逃げようなどとは思わなかったが、ただ、自分のせいで迷惑がかかることだけが心配だった。 だが、そんな懸念など些細なことだと言いたげに、ガウリーたちが探し当ててしまったら殺されていたかもしれない銀髪の青年は、一緒に助けられたキャロルが健康な笑顔を取り戻したのを喜んでいた。 「リヒター殿の性格では、絶対にしゃべらないでしょうから、私から伝えておきます。これは、貴方が知っておかねばならない事だと確信しています」 朝夕の冷え込みが厳しくなってきた、ある日のこと。リューズィーの村にある一室にて、ジェリドの柔らかな物腰から出た厳しい声音が語ったことは、ガウリーにひどく衝撃を与えた。 「このことについて、負い目を感じてほしくないとお考えなのでしょう。実際、かの聖者殿にとっては、必要だからした、それ以上でも、それ以下でもないのです。それでも、彼が払った犠牲は、取り返しがつかない事であることは、たしかです」 ガウリーとキャロルを助けるために、リヒターが自分の手を汚した。それは、本来避けられる犠牲だった。まとめて見殺しにすればよかったのだから。 でもそれをしなかったのは、神殿騎士たちに情報を持ち帰られて、状況を酷くしたくなかったから、というのがひとつ。もうひとつは、自分が後悔したくない、という理由だった。 「彼等の傍若無人な振る舞いに、お怒りだったようです。弱者を犠牲にして逃げのびるなど許せず、その犠牲者である貴方たちを見捨てるなど、優しいリヒター殿には不可能です」 ジェリドは微笑んで、繰り返した。 「自分の犠牲をいとわない、優しい方なのです。むしろ、無頓着ともいえます。ですから、この件について貴方が気に病む必要はありません。私が伝えるべきだと思ったのは、万が一にも、微妙な状況で第三者から貴方に伝えられ、動揺されるのを防ぎたかったからです」 ジェリドの言っていることは当然だと、ガウリーも思う。重要な局面で味方に一瞬でも動揺されるくらいなら、どんなにつらい情報でも先に伝えておくべきだ。 「教えていただき、ありがとうございます。私もこれ以上、敵に利用されたくありません」 「心の強い方で助かりました。ですが、このことは、キャロル嬢には、厳に内密でお願いします」 「もちろんです」 せっかく立ち直ってきたキャロルがこのことを知ったら、卒倒してしまうに違いない。若い彼女に知られるくらいなら、口を噤んで、一人で胸にしまうことなど、当然のことだった。 (出来る限りの助けになりたい。忌々しい首輪さえなければ……) リューズィーのダンジョンで月蝕狼が出てきた時、とっさに背にかばったことに礼を言われたが、自分が受けていた恩恵は、それどころではなかった。そしてリヒターは、ガウリーが持つ献身という常識を軽く超えて、隷属の首輪を外させることに成功した。 「……一度ならず、二度までも、御身を顧みることなく助けていただき、感謝の言葉もございません」 まさか、本当に神々の助力を得てまで、自由にしてもらえるとは思わなかった。だがその代償に、リヒターを酷く消耗させてしまった。それなのに、彼はガウリーに剣を捧げられるなんて、思ってもみなかったらしい。せいぜい、恩を感じたならブランヴェリ公爵代行に仕えてくれたらいいな、くらいしか思っていなかったそうだ。 (この方は、ある意味で狂人なのだ) そうでなければ、説明がつかない。本人は自分を大事にしているつもりらしいが、まわりから見ると、まったく反対なのだ。どこまでも他人を気遣い、他人の利益の為に自分を犠牲にしているのに、その自覚がない。 (これでは、公爵代行閣下やジェリド卿がやきもきするのも、仕方がない) 自分が守護騎士になることで、いくらかリヒターの無茶へ突っ走る歯止めになればいいとも思い始めていた。ただそれも、国境の町ハルビスへの遠征までだった。 静かに風が渡る草原を眺め、自分がどれほど思い上がっていたのかを痛感する。幼児のノアが、魔王ゼガルノアの分身体であるとは聞かされていた。その凄まじい魔法の威力を前にして、リヒターはひるむことなく自分が持つ力を行使して、同等の力量を示した。 おそらく本人は、通るのに邪魔だったから、という必要性を第一にしており、不必要な感傷など意にも介していないし、力を誇示しようだなんて欠片も思っていないはずだ。それでも結果は、おそらく誰にとっても最善なものだった。 コープス伯爵たちとの戦いでは、自分も実戦で役に立つところは見せられたと思うが、とても満足できるものではなかった。少しでも実力の差を埋めたい、役に立ちたい、とは思うのだが、遥か高みを歩く背を見上げるような気分になるのは否めない。 知れば知るほど、神のように遠い存在に思えてくる。整った顔立ちは、色合いのせいか少し神経質そうな冷たい印象を受けるが、話してみれば気さくで穏やかな人柄とわかる。農村育ちの平民で知識がないからと教えを乞われたものの、彼の博学と教養は、その辺の貴族を優に超えていた。たしかに、神聖魔法やアスヴァトルド教の教義に関しては、ほとんど子供と変わらなかったが、実践理論はガウリーの方が目から鱗が落ちる思いだった。 (もう少し、ご自分に自覚があると違うのかもしれないが……) 自分が国で一番の戦力だと言われて、本気で驚いた顔になっていた。なんだか、サルヴィアたちからの期待の眼差しを受けることが多くなった気がして、ガウリーも頭を抱えたくなった。あのリヒターを、自分ごときが止められるわけがないと、すでに理解しているのだから。 だがそれでも、美しい装備一式を下賜され、正式に守護騎士となることを認め、宣言してもらったからには、己のすべてで尽くす所存だ。 「一応、対アンデッド特化にしてあるから、その他が相手だと思ったほどじゃないかもだから、それだけ気をつけて」 「承知しました。ですが……この国に、これ以上の装備があると思いますか?」 「ないね!!」 ばばーんと胸を張るドヤ顔のメロディに、ガウリーは苦笑いを溢す。ロードラル帝国産の武器防具など、エルフィンターク王国では山のように金貨を積んでも手に入れられるかどうかわからない。 (装備を整えてもらったからには、十全な成果を出さねば) ユーパの町で道化師レノレノを指揮下に招き入れることに成功したリヒターが、無謀にも思える中央突破を提案した時には、さすがに一言言いたかったが、レノレノの方が叫んでいたので黙っていた。レノレノの協力があるのならば、それが一番効率いいとジェリドが判断したのも大きい。 結果としては、巨大という言葉でも追いつかないほどのサイズになったダンプウーズが暴れたことで、当初の予定とはだいぶ違った結果になってしまったが、リヒターが恐れていたデュラハンを倒すことには成功した。 「サルヴィアとメロディの所に行ってくるから、ちょっとノアを頼む」 廃墟になったジャイプルからユーパの町まで戻ってくると、リヒターはそう言った。 「はっ……かしこまりました」 それだけで、ぽんと幼児を預けられたガウリーは、片腕だけで収まってしまう小さな体を抱き上げて首を傾げた。 「頼まれましたが……ノア殿、何かご要望は?」 見かけは幼児でも、ガウリーはノアに大人に対するような敬意を払っていた。こう見えて、ノアは大人の言い回しでもちゃんと理解できているのだ。 「じぇーのとこにいく。たーにね、がうりとじぇーを、なぐさめてあげてって、いわれた!」 「はい……?」 とはいえ、ガウリーの方が、ノアの言いたいことを瞬時に理解することはできないのだが。 「ジェリド卿は、いらっしゃいますか」 ジェリドが執務室代わりに使っている部屋から、ちょうどリオンが出てきた。 「はい。ジェリド様、ガウリー様とノア様がおいでです」 「どうぞ」 入室許可を得て姿を見せると、ジェリドがわかりやすく相好を崩した。 「じぇー!」 「ようこそ、ノアくん。ガウリーも、楽にしてください」 「失礼します」 応接ソファを勧められて、向かい合って腰かける。 「それで、なにかありましたか?」 「それが……私ではなく、ノア殿が、リヒター様からオーダーを受けているようで」 「ノアくんが?」 ジェリドに視線を向けられたノアは、リオンに出してもらった菓子に、さっそく手を伸ばしている。 「ん? んとね、じぇーと、がうりが、しょぼーんってなっているからね、のあがなぐさめてあげてって」 「しょぼーんと……リヒター殿には敵いませんね」 少し情けない笑顔を浮かべたジェリドがノアにぞっこんなのは、この周囲ではわりと有名だ。おそらく、ダンプウーズの出現を予測できなかったこと……魔境を甘く見ていたことに凹んでいるジェリドを慰めるのに、ノアは適任だろう。 「そうですか……では、ノアくん。私の膝の上に来ていただけますか?」 「いいよー」 齧りかけの菓子を片手に、とてとてと移動するノアに合わせて、ガウリーも菓子が載った皿を押しやった。 「ありがとうございます。はい、よいしょ」 ジェリドがそれは幸せそうにノアを抱えるので、ガウリーも思わず微笑んでしまう。精神的に疲れている時に、柔らかく可愛らしい小動物を抱えたら、ガウリーだって表情が緩むだろう。 「はぁ〜、癒されますねぇ〜。……ところで、ガウリーまで、なにか……しょぼーんと、するようなことがあったのですか?」 少し余裕が出てきたらしいジェリドに問われ、ガウリーは頭をかいた。自分の情けない所を告白するのは、勇気がいる。 「はぁ。……実は、私を回復させるために、攻撃を中断させてしまったので……」 「え?」 目を瞬いたジェリドに、ガウリーはデュラハンのチャリオットを曳いていた灰色の馬……アシとの戦いの最中、精神攻撃を受けて護りを崩されそうになった時のことを話した。 「それは、仕方がないのでは? リヒター殿は回復役も兼ねているのですから、当然だと思います。ガウリーが倒れてしまったら、誰が護るのです?」 「それは、そうなのですが……」 自分のせいで攻撃を中断させてしまったというのは、盾役としてはかなり落ち込む失敗なのだ。 たしかに、回復役が攻撃役を兼ねるという、特殊な状態ではあったのだが、そもそもリヒターがアンデッドを倒すためにガウリーが盾になっているのだから、本末転倒と言われても仕方がない。 「ふふっ、リヒター殿が、ガウリーがいてくれて助かった、と言っていたのを、聞いていないのですか?」 「えっ……!」 ガウリーは驚いたが、本当のことだとノアが証言した。 「がうりがね、おっきいおんましゃんのあしを、がーんがーんってはじくから、がんばれたって、いってたよ」 「そ、そうでしたか……」 「うふふ! がうり、まっかっか! まっかっか!」 「意外と照れ屋ですね」 ノアとジェリドにからかわれたが、耳まで赤くなったガウリーの頬からは、しばらく熱がひかなかった。 (敵わないな……) くしくもジェリドと同じ感想を抱き、ガウリーは年下の青年に対する忠誠をあらたにするのだった。 |