幕間 ある老女の情報収集手段


 少し前にセントリオン王国で偽聖女騒動があったが、エルフィンターク王国には引退済みの聖女がいる。
 それが、聖女クレメンティア。御年八十五歳。
 離宮を賜り、穏やかな余生を過ごしていた彼女が、再び表舞台に立たざるを得なかったのは、ロイデム大神殿の失態をカバーするためだ。
「若い時に十分働いたのに、まだ働かせようって言うのかい。こんなに寒い中を出歩かせて……あぁ、やだやだ」
 どこかの天才魔道具師が大きく頷きそうなことを呟きながら、クレメンティアは言う事を聞かなくなってきた体に鞭打って、アスヴァトルド教の紋章を掲げた豪奢な馬車に乗った。
 目的地は、旧ディアネスト王国の町、ハルビス。
「まあ、大体の事情はわかっているよ」
 一般に、予知、遠見と呼ばれるが、非常に不安定な能力を、クレメンティアは持っていた。これを神託として勝手に定義されたために、彼女は若くして大神殿に囲われ、自由とは縁のない人生を送ってきた。
 それでも、世間の危険からは遠ざけられたおかげか、一般人の平均よりも、だいぶ長生きをしていた。
(見たくもない物を見て、生きていたくはないがねえ……)
 ロイデム大神殿の無理な遠征と崩壊は噂で聞いていたが、発表された数はずいぶん小さいと、クレメンティアは看破していた。それというのも、おぞましい人体のオブジェや、おびただしい数の臓腑が這いまわるビジョンを、遠見の能力で見てしまっていたからだ。
(年のせいで目が見えなくなってきたんだから、このクソッタレな能力も見えなくなってくれりゃいいのに)
 自分でコントロールができる能力ではなく、勝手に見えてしまうので、クレメンティアにもどうしようもない。
「犠牲になった者たちに、鎮魂の祈りをあげてほしいということですが」
 侍女兼秘書のユッテが、クレメンティアが寒くないようにと、毛布を整えてくれる。
「身内にも外向きにも、私が出ないといけないほど、顔を潰されて、馬鹿なことだよ」
「それが……ブランヴェリ公爵家からの要請があったからだというのです」
「はあっ!?」
 思わず曲がった背が伸びるほど、素っ頓狂な声が出てしまった。
「じゃあなにかい。公爵家から要請が無かったら、放っておくつもりだったって?」
「場所がブランヴェリ公爵領の中ですから……」
 さすがに呆れかえって、クレメンティアもしばらく言葉が出なかった。
「……大神殿の自業自得だっていうのに、ヘリオス殿の孫はなんてできた子だ。優しいねえ」
 ブランヴェリ公爵ヘリオスは、剛毅で自他に厳しい男だったが、涙もろく慈悲深い一面もあった。彼の孫ならば、無法なことをしでかした大神殿に所属する兵にも、慈悲をかける様な心を持っていてもおかしくない。
 クレメンティアはそう思っていたのだが、実際にハルビスの町に入ると、ブランヴェリ公爵家の人間が、慈悲深い、ただそれだけではない事に思い至った。
(なんてこと……)
 かろうじて浄化された空気は呼吸できるが、壊れた町に染み付いた血の臭いが、いまにも瘴気を生み出しそうだ。
「なんて汚いんだ!! こんな場所に降りられるか!!」
 喚き散らしている太った男は、フーバー侯爵。はるか遠くでいまだ浄化されない領地と、ブランヴェリ公爵家が持つこの町周辺とを、交換したそうだ。
「馬車のままでもけっこうですが、重要な設備の説明がありますので、それだけご了承ください。これは、命に関わります」
 出迎えたブランヴェリ公爵家の騎士が先導して、町の中心である広場に到着する。
「降りるわ。降ろしてちょうだい!」
「クレメンティア様!?」
 広場の隅に馬車を停めさせ、クレメンティアはユッテに手伝ってもらいながら、黒く変色した石畳に降り立った。
「なんてこと……なんてこと……!」
 恐ろしい光景だった。広場の石畳はほとんど黒く塗りつぶされ、一部は焼け焦げていた。
(ここだわ。ここに、アレがあったのよ!)
 ビジョンで見えた、おぞましい死体の塔。アレを見てしまった時、クレメンティアは気が狂うかと思った。
 呆然とたたずむクレメンティアの元に、広場で待っていた一団がやってきて、深々と礼をした。
「あなた……あなたが、サルヴィアね?」
「はい、大聖女クレメンティア様。寒い中お越しいただき、感謝の言葉もございません」
 黒いドレスを纏ったブランヴェリ公爵代行に、クレメンティアは何度も頷いた。
「礼を言うのはこちらの方です。ここで死んだ者たちを、弔ってくれたのね」
「いいえ、わたくしではございません。どうぞ、こちらに」
 広場の、また別の隅に、馬車を乗り入れて喚くフーバー侯爵と、それに応対するくすんだ金髪の若い男がいた。
(あら、精霊の祝福を受けているなんて、珍しい)
 その男はサルヴィアの秘書官のような役割を持っているのか、こちらを一礼すると、サルヴィアの後ろに控えた。
「この石碑に付いている浄化玉を、ご覧くださいませ。ここに魔力を込めていただくことで、自動的に浄化が維持されます」
 フーバー侯爵一行よりも、クレメンティアと一緒に来た大神殿の人間達の方から上がるざわめきが大きかった。それはそうだろう。神官たちしか使えないはずの浄化魔法が、誰でも使用可能な魔道具で代用できるなど、許しがたいに違いない。
「静まりなさい。サルヴィア、続けてちょうだい」
「はい。この浄化玉に刻まれている魔法は、大神殿で習得されている浄化魔法とは違うので、通常の神官では浄化の上書きができないそうです。つまり、効果範囲を維持するためには、この浄化玉に魔力を注ぐしか方法がありません」
 試しにやってみても構わない、とサルヴィアに促され、同行していた神官が何人か浄化魔法をかけようとしたが、上手くいかなかった。
「我が領地に充満する瘴気は濃密で、通常の浄化魔法程度では、すぐに再浸食されてしまいます。現在、元凶と思われるアンデッドを討伐する準備中なのですが……こうして瘴気を出す原因を増やされると、非常に困りますのよ」
 サルヴィアに睨まれて、神殿騎士団長と副団長が、そろって視線を下げた。
「この石碑と同じ物が、神殿騎士たちを葬った墓地と、町の外の街道と、街道があった草原の、合計四ヶ所にあります。その浄化玉に魔力を補充し続ければ、範囲内の浄化は維持されるでしょう。いっぱいまで充填して、なにもなければ一週間ほどはもちますわ」
 浄化範囲を描いた簡単な地図が、サルヴィアの秘書官から配られた。
「この町の再建については、フーバー侯爵のお好みもありますでしょうから、なにも手を付けておりませんの。墓地のこともありますし、大神殿と上手く協議していただきたいと思っておりますわ」
 サルヴィアが「上手く」と強調したことで、いまだに馬車から降りてこないフーバー侯爵の中では、血塗れの町を大神殿に片付けさせる算段が、目まぐるしくされていることだろう。まあ、その辺はクレメンティアには関係ない。
「ここに、魔力を込めればいいのね?」
「はい、クレメンティア様」
 鎮魂のメッセージが彫られた石碑にはめられた浄化玉に手を添え、クレメンティアはそっと魔力を流し込んだ。
(まあ! よくできているわ)
 たしかに、浄化玉はなにかの魔法を発動させているようだ。そしてそれは、クレメンティアが知っている浄化魔法とは、少し違うように感じられた。だが、間違いなく神聖魔法だと確信した。
「……これは、魔境を浄化しているという神聖魔法使いの浄化魔法ね?」
「おわかりになるのですか」
「他にいないじゃないの。……そう、女神様の加護が厚い方なのね」
 大神殿に所属していない神聖魔法使いが、ブランヴェリ公爵領で浄化活動をしているという噂は、クレメンティアの耳にも届いていた。そして、これだけ強力な力を持っていながら、神官にならず、サルヴィアに協力しているという理由も、なんとなく察しがついた。
(私と同じ轍は踏ませたくないものね)
 クレメンティアは続いて、神殿騎士たちが葬られた墓地と、街道が途切れて花畑が広がる中で、ねんごろに鎮魂の祈りを捧げながら浄化玉に触れていった。
「なぜ、道が途切れているの?」
 その疑問には、旧国境で出迎えてくれた壮年の騎士が答えた。
「ここには、クリーピングエントローズがおりました」
「え……?」
「敵の強力なアンデッドに抜かれた、神殿騎士たちの、臓腑です。何百人分も、ここで、這いずりまわっておりました」
「……」
 真っ青になったユッテが喉を鳴らしたが、呼吸を乱したクレメンティアにそれを咎めることは出来なかった。
「それを……かの方が、こうして変えてくださいました」
「……そう。……そうだったの」
 クレメンティアはあらためて冬の草原を見渡し、小さな花が揺れるその風景に、熱くなった目を凝らした。ここにまだ道があり、そこに何百人分もの血塗れの臓腑が蠢ていたなど、とても想像がつかない。クレメンティアがビジョンで見た耐えがたい光景が、ここにあったなどとは……。
「神殿騎士たちを襲った、そのアンデッドは?」
 その問いを発したのは、神殿騎士団長のマレバス。そしてブランヴェリ家の騎士は、こともなげに答えた。
「かの方が滅しました。ハルビスの町のあの広場で、我々も戦いました。かの方が先頭で鼓舞してくださらなければ、我々は恐怖ですくんだまま、なにも出来なかったでしょう」
 マレバスをはじめとする神殿騎士たちの表情は、信じがたいと言いたげだったが、クレメンティアは深く頷いてブランヴェリ家の騎士たちをねぎらった。
「神殿騎士たちの仇を取ってくれて、ありがとう。彼等もきっと、心安らかに眠れるはずだわ」
 そしてクレメンティアは、三つのことを大神殿に進言すると約束した。
 ひとつ、今回の遠征について、あらためて誠意ある発表と対応をすること。
 ひとつ、ハルビスの町の復興に協力し、これ以上の瘴気発生を防ぐこと。
 ひとつ、ブランヴェリ公爵領で活動する神聖魔法使いに干渉しないこと。
「大聖女様!?」
「大神官には私からお話しましょう。どこまで聞いてくれるかわからなけれど」
 マレバスたちが苦り切った顔をしたが、わざわざここまで出向いたクレメンティアでも、引退している身で出来ることは、このくらいしかない。
「非力で申し訳ないわ」
「いいえ。ご尽力に感謝いたしますわ」
 大神殿に必ず影響を与えるとは言えないが、クレメンティアが立場を明らかにしたことに、サルヴィアは心から礼を言っていた。
「それから……ありがとう、どうか体に気をつけて、と、あの方に伝えてくださる?」
「かしこまりました。たしかに」
 クレメンティアはサルヴィアに頷き返すと、馬車に乗って王都への道を引き返していった。
(あらあらまあまあ、久しぶりに外に出てみたら、大収穫だこと)
 ブランヴェリ公爵領で活躍する、神聖魔法使いのことではない。もちろん、機会があれば会ってみたいと思うほど、興味深い人物だとは思う。
 だが、今回はそれ以上にショックなことが耳に届いていた。
(メラーダですって? 神殿騎士団長までグルだなんて、冗談ではないわ)
 クレメンティアが大神殿にいたころ、肩から下げていたサッシュの色は、赤でも青でも紫でもなく、濃い黄色だった。
(風の精霊さんたち、相談するのは誰がいいか、王城で探してきてくださいませ)
 クレメンティアのもっとも優れている能力は、遠くを見てしまう目ではなく、その気になれば国中のどこの声でも拾うことができる、精霊の力を借りた耳であった。