第五幕・第一話 若村長と次の手


 雨が降るたびに、朝の空気が冷たくなってきた。青々としていた森の木々も、あちこちで赤や黄色に染まっている。
 まだ寒くはないが、人によっては、そろそろ上着や厚手のズボンが必要かもしれない。
 旧ディアネスト王国領である現ブランヴェリ公爵領は、ここよりは北に位置するエルフィンターク王国領よりもだいぶ暖かいので、俺からすると緩やかな秋に感じられた。
「雪は降らないのかな?」
「山の上の方以外は、あまり降らないみたいね」
 サルヴィアによると、ここ北の森でも、俺の故郷よりは厳しい気温にならないそうだ。
「それでも、冬の衣類はきちんと準備なさいませ。ほら、ノアちゃんもずいぶん大きくなりましたわ。この頃は、どんどん大きくなりますもの」
「ん!」
 サルヴィアの侍女頭であるエルマさんに、新しい長袖と長ズボンと毛皮の靴を用意してもらったノアは、ぬくぬくとした着心地に満足なのか、ご機嫌な笑顔で俺に見せに来る。
「よかったな、ノア。似合ってるぞ」
「えへへ」
 音が出るサンダルは春までお預けになってしまい、勝手に走っていくノアを見失いがちになるが、霜でぬかるんだ地面を歩いて霜焼けになられるよりはいい。
「リヒター様も。なにを他人事のようにされていますの」
「え?」
 俺は故郷から持ってきた冬服や防寒具で十分なのだが、エルマさんの手には、俺用と思われる服が……なんで、そんないっぱいあるんです?
「あきらめろ」
「くっ」
 サルヴィアの奴、にやにやしやがって。いや、服をもらえるのはありがたいけどさ。俺は貴族じゃないんだけど……。
「似合うのですから、いいではありませんか。それに、サルヴィア嬢と行動を共にするのなら、質素過ぎる服装は、かえって目立ってしまいますよ」
 ジェリドまでっ……! くそぅ、正論すぎて言い返せない。
「よろしく、おねがいします……」
「はい。お任せくださいませ」
 エルマさんは、亡くなったサルヴィアパパ……アーダルベルト卿の従姉だそうだ。どうりで、この圧しの強さというか、侍女というより肝の据わったお母さん感があるはずだ。
「よろしいですか、人間というものは、おおよそ見た目六割、肩書三割、その他一割で、初対面の他人を評価するものでございます。清貧も悪くはございませんが、ある程度の余裕を見せつけなくては、有利な交渉どころか、席にすらつけません」
「ハイ……」
「また、相対する方だけでなく、まわりの多くの方々に見られているという事にも、お気を付けくださいませ。わたくしどものような貴族の使用人、あるいはリヒター様のような市井におられる庶民の方々。彼等の噂話、評価というものは、まわりまわって上にも伝わるものでございます」
「ハイ……」
 わかってはいるけど、貴族怖いなぁ。早く長閑な暮らしに戻りたいよ……。
 エルマさんによって、伸びっぱなしの髪の傷んだ部分が切り取られ、俺の銀髪は近年にないほどサラサラになった。
「……こうしてみると、やっぱりリヒターってディアネストの上流階級出身だなぁって思うわ。質感というか、気品の空気感というか、ミリア姉さまと似たところがあるのよね。エルフィンターク貴族とは、ちょっと違うわ」
「勘弁してくれ」
 俺を上から下まで凝視したサルヴィアに、しみじみと呟かれ、俺の眼差しが遠くなった。俺は産まれて此の方、貴族として生活した記憶はないし、平民でいいんだ。だいたい、ミリア様だって貴族っぽくないじゃないか。
「リヒター殿は、エルフィンタークの平民とうかがいましたが?」
「うーん、証拠はないのだけれど、その昔取り潰された、伯爵家の縁者かもしれないの。養子に出されていたのよ。その事件も二十年以上前だし、ディアネスト王国もこの状態だから……」
「調べるとしても、当分先になりそうですね」
 サルヴィアとジェリドはうんうんと頷き合っているが、そんなもの調べてどうするんだ。いらん、いらん。
「では、いってらっしゃいませ」
「留守をお願いね」
「護衛にサンダーバードと金鶏を置いていきますが、無茶はしないでください。すみませんが、餌やりをお願いします」
「かしこまりました」
 エルマさんに見送られ、俺たちはリューズィーの村を後にした。
 俺が必要以上に身なりを整えられたのは、久しぶりに難民キャンプのフィラルド様のところへ行くからだ。フィラルド様はまあいいとして(よくないかもしれないが)、エルマさんが言ったように、難民キャンプにある桟橋には、いろんな人が来る。
 そして、ここまでジェリドに付き従ってきたロータスさんとも、お別れとなる。ロータスさんはセントリオン王国に帰って、ジェリドの指示に従って、色々やることがあるらしい。セントリオン王国領までは、『鋼色の月』が護衛を請け負ってくれるそうなので、俺としても安心だ。
「この歳で魔境暮らしは、少々しんどいものがありまして……。代わりと言っては何ですが、信用のおける若い者をご用意いたします」
 まあ、たしかに。この先を考えると、その方がいいかもしれない。
 安地の『大地の遺跡』あたりはまだ静かだけど、リューズィーの村まで来ると、昼も夜も当たり前のようにどこかで地響きがするし、夜中に奇声が響いたりするもんな。少ししか離れていないのに、すごい差だ。
 シームルグを先触れとして飛ばした後、凸凹した森の地面を滑らないように踏みしめ、俺たちは難民キャンプに向かって歩く。俺は一応身を隠すことになっていたので、むこうの様子が悪ければ、いったん待機することもあるだろう。
「ジェリドがいてくれるのは嬉しいけど、セントリオンの国王様とか、怒らないかな?」
「そこは大丈夫ですよ」
 ジェリドは笑顔なのに、うっすらと怖い目をしている。なんか策があるんだな。
「セントリオン王国には、アスヴァトルド教の聖地と、総本山である大神殿があるのは、ご存じですね? そして私は、その大神殿にすら匙を投げられていたのに、リヒター殿によって生き永らえている。大神殿が無力だという証拠である私が、陛下の元に戻ったら……」
「あぁ、ジェリドに生きていて欲しくない大神殿との間に、軋轢が生まれる? それを避けるには、ジェリドに帰ってこなくていいと言わざるを得ない」
「その通りです」
 セントリオン王家も大神殿に大きな顔をされたくないが、なにしろ国民のほとんどがアスヴァトルド教徒なので、それなりに仲良くしなくてはならない。いくら国王や宰相が、有能なジェリドを惜しんだとしても、ここは諦めた方が得策という事か。
「私はあくまでも、命の恩人であるリヒター殿に付き従う、という建前で、こちらに残ります。それならば、陛下たちもなおのこと、無理強いを避けることでしょう。私に命令できなくはないのですが、割に合わない結果を招きかねません」
 サルヴィアに従うとなると、色々政治的にややこしくなるが、平民である俺ならば、問題にならない。特に、俺はジェリドの命を救った人間であるから、救う手立てがなかった自分たちが文句を言えば、逆に非難の的になるだろう。
「……なるほど。自分たちが嫌でも良識的に自重することで、大神殿が俺に何か強制しようとしたら、それに『いかがなものか』と言える立場にもなるわけだ。完全な防波堤ではなくとも、多少の牽制役を期待できるってことか」
「やはりリヒター殿は、察しが良くていらっしゃる」
 ジェリドはにっこりと笑っているが、こんな面倒くさいこと、よくすらすらと思いつくもんだ。
「今の時点で神殿が強硬手段に出てこないとも言い切れませんが、その時はその時で、彼らに大恥をかかせてやればよろしい。私はここで、ぴんぴんしているのですから。……返り討ちにして差し上げます」
 賢者、こっえぇーーー!!!!
「まあ、なるべく誰も損をしないように、損をしないために身動きが取れない、そういう流れになるよう、ロータスに手紙を持たせたので、こちらは静観していればよいでしょう」
 思いつくだけじゃなく、実際に処理できるから、やっぱりジェリドってすごいよな。仲間にしてよかった。
「魔獣素材の販売経路と、食料の輸入ですが、こちらもいくつか手を打っておきました」
「助かるわ。リヒターには感謝しているけど、金と銀の卵も、頻度が多くなると足元を見られかねないもの」
「……私も拝見しましたが、最近はミスリルやオリハルコンの卵も混じっているようで?」
「あはははー。あの村、魔素が充満しているからなぁ……」
「そういう理屈なのでしょうか?」
 知るか。金鶏の金策チートを、人間が理解できるもんか。
 ほぼ毎朝、貴金属の卵を生み落とす金鶏は、なぜか魔王の分身体であるノアと大の仲良しで、一羽と一人で村とそのまわりを走り回り、食べられるキノコや珍しい野草を摘んできたり、徘徊している魔獣を次々と狩っては、貴重な魔獣素材を回収してきたりする。
 おかげで、毎日ノアのリュックや手提げ袋を確認しないといけない。俺はお母さんか。たしかに、【魔王の保護者】って称号は持っているけど。
 たまに、ちょっとシャレにならない物が入っていることがあるから、サボらずにちゃんと見ているよ。ただの綺麗な色付き小石だと思ったら、錬金術で使う? 作れる? めちゃくちゃ高価な物質だったなんてこともあって……粗末に扱うなって、サルヴィアに怒られた。
「村の倉庫に詰め込まれている素材だけでも、末端価格は小国の年度予算に匹敵しそうです。グレーターブラックセンチピードの背板や、ゴールデンファイアフライの完全に欠けのない死骸なんて、初めて見ました」
 うん、俺も初めて見た。全部ノアが獲ってきたんだけど。
 サルヴィアたちと違って、俺にはそれの価値がわからないから、なんというか、実感がわかないんだよな。
「全部売れて、ブランヴェリ家の金庫が潤えば、何でもいいさ。ついでに経済がまわるし、あちこちで研究やら技術やらも進展するだろ」
「本当にリヒターは、のんきというか、欲がないというか……。わたくしを信用しすぎではございませんこと?」
「無責任なだけだよ。サルヴィアなら、上手く使わなきゃいけない、っていう理由を持っているからな」
 売れた素材のせいで、後々ブランヴェリ家が困ることだってあるかもしれない。でも、そんなこと考えている場合じゃない。俺たちに必要なのは、今すぐ使える現ナマだ。
「リヒター殿は、天国に宝を積み上げるタイプなのでしょう。現実での財貨など、見向きもなさらない」
「またジェリドの買いかぶりが出た。お金は大事だよ。だから全部サルヴィアにあげるし、どうやったら儲けられるかなぁって考えるし」
 効率のいい使い方ってものがあるだろう。サルヴィアが使ってこそ、俺を含めたたくさんの人が助かるのに、俺が貯め込んでいたって仕方がないじゃないか。
「儲けを自分だけに使う気がないところが、私は本当に聖者殿らしいと思うのですよ。ねえ、サルヴィア嬢?」
「ジェリド卿に完全同意するわ」
「なっとくいかーん!!」
「いかーん!」
 俺と手を繋いでいない方の手を上げたノアだけが、俺に同調してくれているような……ただ面白かっただけか?