賢者殿専用胸枕


 寝静まった深夜の宮殿で、まだ煌々と灯りが付いている一室があった。

 カリカリ、カリカリカリ……カサ、パサ……カリカリ、カ

 インクを付けるときと書類を変えるときしか止まらなかったペンの音が、ふいに途切れた。

「どうしました?」

 どっしりとした執務机から顔を上げたジェリドは、扉の前で手を腰に当てて立っている男を視界に収めた。
 筋肉質な長身に戴いた顔立ちは線が太く、きらりと輝く金色の目の力が強い。ふわりと肩に揺れる赤髪には黒いものが混じり、まるで熾火のようだ。
 人間がドン引きするからあまり禍々しい格好をしてくれるなと渡した、黒を基調とした軍服風の上下が似合っている。彼を知らない人間が見たら、高級将官にしか見えないだろう。

「何時だと思っている」
「仕方ないでしょう。忙しいんです」

 大公領成立セレモニーは、もう二週間後に迫っている。要人を招いた式典に晩餐会、祝賀パレードなど。それらを万事手抜かり無く準備運営するのが、若い大公の右腕であるジェリドの仕事だ。

「だからといって、働きすぎだ。リヒターが心配している」
「あぁ……聖者殿も心配性だ」
「ジェリドがちゃんと寝れば、誰も心配しない」

 ジェリドが大公の右腕なら、リヒターは懐刀だ。彼は彼で領内を飛び回っているはずだが、今夜は帰ってきていたらしい。

「これが終わったら、ちゃんと寝ますよ」

 その「これ」が、手元の書類一枚ではなく、横に積まれた一山であることを、ノアはちゃんと理解している。ゆえに、強硬手段に出ることにした。

「ジェリド」
「はい?」

 再び書類に目を走らせ出したジェリドのズボンを、小さな手が引っ張った。

「!?」
「じぇー、おうちかえろ?」

 ふわふわの赤毛、ぷにぷにした白い頬、ちんまりとした愛らしい鼻、つやつやの唇。困ったように下がった眉の下にある、まんまるの金目が悲しそうに見上げられ、袖に埋もれた手が、ジェリドのズボンをくいくいと引っ張っていた。
 椅子に座った自分の足元に立っている、大人の服を引きずった幼児に瞠目すると、ジェリドはペンも書類も放り出して魔王を抱き上げた。

「ノ ア き ゅ ん !  は い !  お 家 に 帰 り ま し ょ う ! !」
「……」

 がったんと椅子から立ち上がったジェリドは、ノアが入ってきた扉に向かって、足早かつ大股で執務室から出ていった。
 大公や聖者に「あいつ、こんなキャラだったか?」などと言われようと、ジェリドは構わなかった。彼にとって、強くて可愛いは大正義なのである。


 宮殿にあるジェリドの執務室と、ダンジョン最奥にあるノアの居室が繋がっているのは、「その方がジェリドの生活の質が上がる」という理由だけで、大公が許可したものだ。

 ちっちゃいノアのお世話だからとすれば、ジェリドは喜々として一緒に風呂に入るし、食事もちゃんととる。
 ノアとしては、いつになったら大人の自分をかまってくれるのかと不満である。大人なので、ジェリドの忙しさに理解を示すが、それでも魔王様は不満なのだ。

「だからって、だまし討ちのように大きくならないでいただけますか?」
「こうでもしないと、ジェリドはまた仕事に行くだろう」

 天蓋付きの大きなベッドの上で、太い四肢にがっしりと抱きしめられ、ジェリドはため息をつく。ほとんど拘束に等しい。

「しませんよ。ちゃんとノアくんを寝かしつけます」
「その後は?」
「……」

 腕の中で視線を逸らせるジェリドに、ノアはふっと笑みを浮かべてみせた。

「(睡眠魔法で)眠らされたいか? それとも(気絶するまでセックスして)眠らされたいか?」
「どちらも選べない選択肢じゃないですか! 明日の業務に差し支えます」
「じゃあ、大人しく寝ろ。胸くらい揉ませてやる」

 ノアに抱きしめられたジェリドの頬には、すでに温かいノアの胸が当たっている。ばいんと張り出した厚みは、枕にするにはだいぶ高いのだが、もちもちむちむちとした肌触りが、最高に気持ちいい。

「はぁ〜〜〜」

 むにむにもにもにむにむにもにもにむにむに……

「……」
(……寝たか)

 ノアの胸を鷲掴みにしたまま、谷間に顔を埋めるようにして寝入ったジェリドのつむじを見下ろし、ノアは静かにため息をついた。

 ジェリドは一国の宰相に匹敵するほど頭がいい上に、文官にしておくにはもったいないほど強い。だからといって、誰かに甘えないで生きていくのが辛くないわけではないし、休まず働いていられるほど体の内側が強いわけでもないだろう。
 それを自覚しながらも働いてしまうのは、ジェリドが己の仕事を好きすぎるからだ。

『ジェリドが仕事以上に好きなのは、ノアくらいなもんだよ』

 控えめに、けれど朗らかに笑いながら、リヒターはノアにそう言った。
 ノアはそれを、本当かなと時々疑いたくなったが、こうして自分の体の上で無防備をさらす度胸があるのは、ジェリドしかいない。

「ん……」

 よだれが垂れてきたジェリドを、そっとベッドの上に仰向けにおろし、ノアはくすんだ色調の金髪を撫でた。こうして額を出した寝顔は、賢者と称えられる男を、意外と幼く見せる。だがノアは、いまは閉じられている瞼の向こうに、知性が迸るモスグリーンの瞳があることを知っている。

「式典が無事に終わったら、休暇を取れ。休暇を取ったら……一晩中でもヤらせてやる」

 柔らかく触れた唇の約束を、眠る賢者はまだ知らない。