あの人


 新緑が眩しくなった季節。
 墓参りのために寺の門をくぐったところで、よれたシャツにジャケットを羽織った、四十がらみの痩せぎすな男とすれ違う。
「……」
「……」
 互いに小さく会釈をしてすれ違うのは、彼と会うのが初めてではなかったからだ。ただ、顔を見たことがあるだけで、名前も知らない。
 この日は毎年、そんな人とすれ違うことが少なくない。
「あれ、榎田統括部長?」
「おう」
 墓地の入り口にある、無縁仏の大きな墓石の前で、見知った厳つい顔と出くわした。
「なんだ、坂地もか。義理堅い奴だな」
「はあ」
 そういうアンタはどうなんだ、と言いたいけれど、下っ端は礼儀正しく口を噤んだ。
 墓石の前には、普段は置いていないだろうバケツに水が張られ、いくつもの花束がいけられていた。坂地もそれに倣い、持っていたスプレーカーネーションの花束を入れ、静かに手を合わせる。
 自分の隣に立ったままの厳つい顔の男も、やはり無言のまま。
「……。さっき、門のところでちょっと色黒な痩せた男の人とすれ違いましたけど、あの人デザイナーさんでしたよね?」
「ああ。フリーでやっている人だな」
 会社にとっては取引先のひとつだが、坂地とは直に関わる相手ではない。ただ、信じられないほど広い人脈を持っていたあの人を中心としたならば、自分たちも彼も、あの人の衛星と言っていいだろう。
「毎年思いますけど、すごい慕われていたんですね。……そういえば、榎田統括部長の部下だったんですか?」
 あの人は自分の上司ではあったが、いま隣にいる男とは当時から部署が違っていた。
「いや。大学の後輩だ」
(ってことは、統括部長も旧帝大卒でしたかぁ)
 高学歴だらけの職場なので、そこまでではない自分は、たまに目が泳いでしまう。坂地は新卒入社ではなく、中途採用だ。ブラックだった前職で死にかけた時に、あの人に引き抜いてもらったから生き残ったのであり、本当に運が良かったと思う。
「……大学で参考書を融通したことがあったんだ。そうしたら、会社でやらかした時に、新卒で入ったばっかりのあいつが助けてくれたんだよ。マジで億単位の大損害出してクビ確定か、ってところから、あいつが絡んだとたんに大逆転よ。あの頃はまだバブルだったからな。出ていく額も多けりゃ、入ってくる額も、いまとは全然違う。……借りは返しましたよって、そんなレベルじゃねーっつうの。わけがわからん」
「えぇ……」
 榎田がため息交じりに話してくれた仰天エピソードに、呆れてしまう。だがしかし、あの人ならやってしまうだろう、とも思ってしまう。
「お前は?」
「うちにいる時は、上司でしたから。俺は、あの人が辞めるための補充要因として、他社から「即戦力扱い」で引き抜かれてきたんです。だから、一緒にやっていたのは、一年ちょっとだけでしたけど。……ただ、なんていうか、あのきっかけをしゃべったのが……あの人にチクったのが、たぶん俺だったんですよ」
「そうか……」
 あの人は婚家の家業を継ぐといって、商社であるうちを辞めていった。あの人の実家も会社をやっていて、現代の政略結婚だよと笑っていた。
(でも、幸せそうだったのになぁ)
 世間は大不況だったけれど、あの人の手腕で奥さんの実家は安定した業績を出していたらしい。子供も生まれて、平和に暮らしていると思っていた。
(でも、俺が壊しちゃった……のかも)
 最初に違和感を覚えたのは、久しぶりに会った友人との、ほんの些細な雑談の中だった。あの人の実家の株価、あの人の婚家の変な噂、見間違いかと思った人混みの中……バラバラに流れてきた情報の欠片を、坂地があの人に伝えた。
 その時には、あの人は、もう知っていたかもしれない。だけど、いつもと変わらない、穏やかな調子で、うんうん頷きながら、坂地の話を聞いてくれた。
(大丈夫だよって、全然大丈夫じゃなかったじゃねーですか)
 あの人は、自分を利用し裏切ったもの、悉く全てを叩き潰していった。それはもう、話を聞いた全員が、顔を真っ青にするほどの、情け容赦のなさだった。
 二つの企業が消え、三つの企業が凋落したか経営者が変わった。わかっているだけで、関連した七家族が破滅。親戚を含めれば、もっと多いだろう。老人子供に至るまで、経済的にも社会的にも最底辺に叩き落とされた。
 吊ったり飛び込んだりした者もいるかもしれないが、就職氷河期も終わらないリストラ嵐が吹き荒れる中で、そんなニュースは日常茶飯事だったから、新聞に小さく載ったとしても誰も気にしない。
 あの人を裏切った家の会社にたまたま勤めていた人たちは、運がなかったとしか言いようがないが、路頭に迷うきっかけが自分だったかもしれないと思うと、坂地は暗澹たる気持ちになる。
「まあ、あれだ。あいつを裏切ったのが悪い。遅かれ早かれ、ああなっただろうよ。知らずに犯罪の片棒を担いでいるよりはいいじゃないか。お前が気に病むことじゃない」
「……はい」
 担当した弁護士や国税局員たちが、口をそろえて「ぺんぺん草も生えない焼け野原」「逃げ場のない生き地獄」と苦笑いを溢していたそうだ。彼らにもまた、あの人の息がかかっていた。
(あの人と血が繋がった子供が、貧しくて苦労することがないだけ、マシだったんだろうか)
 あの人に子供はいたが、存在しなかった。DNA鑑定の結果だ。
 本人が言っていたように、彼らの婚姻は政略的な面が大きかった。だがそもそも、あの人一人だけを犠牲にして大小の犯罪を隠し、他全員が切り抜けるような計画が、あの人の実家や婚家を中心に立てられていたらしい。
「詳しく聞いていたのか?」
「まさか。病院に見舞いに行った時に、看護師が噂していたんです。横溝正史の世界に出てきそうな、我執まみれな昭和の因業家族の話なんて、聞きたくないですよ。子供まで巻き込んで、胸糞悪い」
「たしかにな」
 坂地が吐き捨てると、榎田も小さく肩を上下させた。
 あの人を利用しようとした人たちにとって、あの人は都合のいい駒でしかなかった。ただ、誤算だったのは、大不況という外的要因と、あの人が超がつくほど優秀過ぎたことだろう。
「あんな目に遭うのが、あいつである必要はなかった。だけど、あいつでなければ、喰い破れなかっただろう」
「同感です」
 ただ勉強ができるだけの人間だったなら、そのまま利用され続けて捨て駒にされただろう。ただ頭が良くても精神の強靭さがない人間だったなら、知ったところで心が折れて、やはり同じ結末を迎えた可能性が高い。
(たしかにあったはずのものが幻だったなんて。愛された過去も、愛した現在も、堅実な将来の計画も、両手にあったはずの幸せも、全部意味の無い事だったなんて……俺じゃ耐えられない)
 いまだに独身だが、それなりに家族仲が良かった温かな少年時代を過ごしてきた坂地であったから、彼を襲った虚無を想像して背筋が震えた。
(命を燃やして、抵抗したんですか)
 坂地が聞いたときには、すでにあの人は病院のベッドから起き上がれなくなっていた。やせ細り、チューブに繋がれた姿でも、相変わらず柔らかく微笑んで、見舞いに訪れた坂地を迎えてくれた。
 あるいは、余命が少ないと知っていたからこそ、徹底的にやり返そうと思ったのかもしれない。
「……俺ぁ、今年限りにしようと思ってる」
「え?」
 突然なんのことかと隣を見ると、角ばった顎がくいと墓石を指した。
「あいつが死んで、そろそろ十年だ。自分から遺骨も他人に混じって、名前も残さない選択をした。偲んでやるのは、心の中だけにしようと思う」
「……」
 寺の記録には残っているかもしれないが、あの人の名前が刻まれたものは……あの人が存在したことを示す物は、もうどこにも残っていない。
 自分を利用した人間達に、痕跡すら残してやりたくなかったのだろうか。それとも、やはり絶望が深く、この世界から消えてしまいたいと思ったのだろうか。
「あいつのことは、関わった人間の記憶にだけ残っていればいい。あいつに助けてもらったことを忘れなければ、俺はそれでいいと思っている」
「……そうですね。はい」
 坂地はもう一度手を合わせ、あの人の冥福を祈った。
(どうか、安らかに)
 そう願う一方で、あの人なら案外さっさと生まれ変わって、新しい人生をエンジョイしているんじゃないかなと、唐突に思い浮かんだ。
(いま流行りの異世界転生なんかして、俺Tueeeって無双してたら笑う。あの人、なんでもできる人だったからな)
 少し心が軽くなって口角が上がった坂地は、会社の上役と連れ立って、おそらくはもう来ない墓地を後にするのだった。