朧月夜 V
アルヴィーゼ様、と呼ぶ声に、頭の中の霧がぼろりと剥がれ落ちた。 「アルヴィーゼ様、いらっしゃいますか?」 使用人の呼ぶ声が、扉の外から聞こえる。 自分の寝台の上。 そこに一人でいるのに気付き、アルヴィーゼは不審に眉をひそませながらも起き出した。 「今・・・行く」 乾いてかすれた声がでた。 外出着ではなく、ちゃんと部屋着に着替えて寝ていたようだった。 (ジュリアンは・・・?) あまりに疲れて、変な夢を見たのだろうか。 寝室にあった姿見に映った自分を見て、アルヴィーゼの目が据わった。 (・・・夢じゃない) あちこちに付けられた小さな痣が、所有宣言をするかのように誇らしげだ。 「くそっ、あいつめ・・・!」 イライラと着替えて、足音高く階下に降りれば、今日も美しい妹がいた。 「おはようございます、お兄様」 「おはよう、ヴィットーリア。ところで、ジュリアンの奴めはどこだ?」 ぴきぴきと怒りのヴォルテージが上がっていくのが自分でもわかるが、ヴィットーリアは輝くような笑顔で手を打った。 「ジュリアンと会えましたのね!よかったわ!」 「そのジュリアンはどこだと聞いている」 「ジュリアンなら、もう行ってしまいましたわよ」 「・・・どこへ?」 「さぁ・・・あちこち回るかもしれませんけれど、最終的にはインディアスではないかしら?今は向うに住んでいるのよ」 昨夜あれだけ好き勝手やっておいて、すでに当人は海の上だというのか! しかもインディアスだと!? 地中海を抜けて大西洋を渡りきるのに、何週間、何ヶ月かかると・・・!! 「あの不埒者め!」 「お兄様、何か言いたいことがおありなのでしょうけれど、お兄様がいけませんのよ」 「なぜだ?」 「ヴェネツィアの太陽」と賞賛される妹は、呆れたように兄を見上げた。 「ジュリアンは、何日も家に滞在していましたのよ。お兄様にはすぐ帰ってきてくださるように、何度も使いを出したのですけれど、全っ然、音沙汰なしで!」 そういえばそんな伝言があったような気もするが、その度に一瞬で忘れていた。 ジュリアンの名前が出れば、何をおいても家に帰っただろうが、公邸でその名前を出すわけにはいかなかったに違いない。 「他のお仕事の期限もあるから、昨夜までがぎりぎりの滞在時間でしたのよ」 「・・・そう、か」 仕事に追われるあまり、最も大事にしたい時間をフイにしていたようだ。 肩を落したアルヴィーゼを見て、ヴィットーリアは可笑しそうに口元を覆った。 「お兄様ったら、本当に要領がお悪いのだから」 むっとしたが、本当のことなので反論も出来ない。 「ジュリアンとは、何かお話をして?」 「はな、し・・・」 「愛しています」と、惜しげもなく降ってきたキスを思い出し、アルヴィーゼは赤面した。 「べつに・・・たいしたことは」 「あら、そう?」 「ただ、返事を・・・」 「お返事?」 言葉どおり、ジュリアンは自分の気持ちを伝えていった。 しかし、アルヴィーゼは、きちんと応えていない。 だいたい、されっぱなしというのも中途半端に過ぎる。 アルヴィーゼは深くため息をついた。 「いつ会えるかもわからんと言うのに・・・」 「それなら、お兄様から会いに行けばよろしいのではなくて?」 「そんな・・・」 「絶対に無理かしら?」 今のままでは無理だ。 しかし・・・アルヴィーゼの頭の中で、精密機械のようにスケジュールが組みなおされ、航行の大義名分、費用、日数などが算出される。 「・・・・・・」 「今すぐでなくても、お兄様ならできるのではないかしら?」 「いや、この国を空けることなどできん」 「もうっ、お兄様の石頭!」 ばしっと胸に叩きつけられた書状を受け取る。 封蝋には、見覚えのある紋章。 「ジュリアンから?」 取り出した便箋には、優美な文字が、ただ一文だけ。 次の聖夜に 何ヶ月も先の話だ。 しかし、今からなら長い休みを取れるよう調整が出来る。 「ヴィットーリア」 「なにかしら、お兄様?」 「ジュリアンを呼んだのはお前だな?」 ぎくっと、妹の視線が泳いだのを、兄は見逃さなかった。 妹の頼みを聞きそうな航海者に、アルヴィーゼは心当たりがある。 ため息をつきつつ、アルヴィーゼはヴィットーリアを抱きしめた。 「おせっかいめ。・・・感謝する」 「兄想いと言ってくださいな、お兄様」 ヴィットーリアにとっては、どちらも「兄」なのだ。 家族が一堂に揃うのは、そう長い先の話ではないかもしれない。 ≪fin≫ |