序
その日は、珍しく吹雪いてはいなかった。
しかし、冷気は相変わらず肌を刺し、私の紫色に腫れあがった手足は、間もなく先の方から腐り落ちていくだろう。もう、痛みすら感じない。 この数日、身動きすらしなかった私の体には雪が積もり、また凍りついてしまって、起き上がるのに少し時間がかかった。 なぜその日にかぎって動こうなどという気になったのか知れない。あと少しそのままでいれば、このあさましい肉体は活動をやめ、罪深い魂もろとも、氷の中へ埋もれていけたのに。 やはり、雪が降っていない。見渡す限りの氷の大地。いや、沼地、というのが正しい。そこへ足を踏み入れた者は、凍りつきながら、徐々に大地へと沈んでいくのだから。目を凝らせば、あちこちに手や頭などが地面から突き出していて、不気味この上ない。ついさっきまでは、私もこれらの手や頭とかわりなかったはずだ。 しかしながら、これはどうしたことか。長年この凍結した沼に住んでいるわけではないが、今までにこれほど穏やかな天気になったことはない。相変わらず、昼とも夜ともつかない曇天の暗闇を眺めていた私は、ふと声を聞いた。 (・・・気のせいか?) 極寒のこの地へ流されてきた者は、私の他にも相当数いるはずだ。しかし、彼らの呻き声や、 (また聞こえた。どこだ?) きしむ首をめぐらし、痩せ細った腕で支えながら立ち上がってみた。 「どこ・・・?誰か、いるのか?」 自分でも驚くほど、はっきりと舌が動いた。 風の音に消えてしまいそうな、かすかな声に耳を澄ませる。どうやら、私のいる岩場の反対側あたりから聞こえてくるようだった。 ぬかるんで歩きにくい地面を苦労して進むと、雪が降っていた時には気付かなかった洞窟を見つけた。入口は小さく、私は岩の裂け目のようなところに潜り込んだ。 凍った沼の下に、こんなにも大きな洞窟があったとは・・・! 暗くて全体は見渡せないが、入口から下り坂になっており、すぐに天井に手が届かなくなった。左右の幅もどんどん広くなり、 ・・・ダレカ・・・ 岩肌に反響してひどく聞き取りにくかったが、たしかに誰かが呼んでいるようだ。外からでも聞こえたのに、大きな声というわけではない。ただ、どこかに閉じ込められているような、こもった声だ。 ・・・ダレカ・・・イマセンカ・・・ 暗闇の中に、ぼんやりとした光を見つけてそこへしゃがみこんだ。ちょうど、小さな池のような、氷の張った水溜りだった。 暖かな、久しく拝んでいない太陽のような、穏やかなで、柔らかな光。ほぼ無彩色のこの地には不似合いなその色は、赤とも黄色とも、時には青にも見えた。 ・・・ダレカ・・・ そのせつとした声に、私はまぶしくて閉じていた目を開けた。 厚い氷の下で泳ぐものを、私を呼び寄せた声を発しているものを、暖かな光を放つものを、私はしかと見定めた。 ・・・ダレカ、気付イテ・・・ なんだ、これは? 魚? それは黄金色をした長い体をくねらせ、途方にくれているようだった。 「来てやったぞ。お前は誰だ?」 長い ・・・オ願イ・・・助ケテ・・・ 氷の下で泳いでいるものは、どうやら氷を割ろうとしているらしく、懸命に頭上を覆う氷天井に体当たりをしている。自身だけでなく、そのまわりの水まで光って見えたのは、はがれた このままでは、氷が割れる前に力尽きてしまう。 「お前がこれを割るのは、無理だと思うぞ」 ・・・コレヲ破ラナイト・・・アナタヲ 「私を呼ぶ理由はなんだ?」 ・・・僕達ノ世界ニ来テ欲シイ・・・ 「まぁ、ここから出られたら、そりゃあ嬉しいが・・・」 行く先にも問題があるんではないだろうか?僕達の世界って、どこだ。 冷たい岩の上に座り込み、私はぼんやりと「僕」を見つめた。他に表現の仕様がない。見たこともない姿をしているが、悪くはない。それどころか、美しいとさえ感じる。 一生懸命に氷を割ろうと泳ぐ「僕」は、どうにもならない現実に折り合いを付けられずに足掻いていた私に、少し似ている。そう、思った。 「諦めろよ。お前には無理だ」 ・・・アナタガ応エテクレタ・・・無理ジャナイ・・・ 鱗がはがれ、鰭もところどころ裂け、傷だらけになっても、「僕」は金色の光を撒き散らしながら泳ぎ続ける。 「お前は愚か者だ。自分の分をわきまえろ」 ・・・ワカッテイル!・・・ ぎん、と頭に響く力強い声。 その激情が、小さな体のどこから出てくるのか。厚い氷越しに、私は睨まれた。 ・・・ダケド・・・僕以外ニ誰ガ出来ル?・・・ ・・・僕ハ・・・自分ニ出来ルコトヲスル・・・ ・・・全テノ望ミヲ懸ケテ!・・・ 妙な気分だ。 そもそも、私は反逆の罪でここへ流されてきたのだが、金も権力も役に立たず、 「私は自分の信念のもと、祖国を裏切り、王に逆らった。そして、多くの犠牲を生んだ。それがどれほど罪深く、自分がどれほど愚かであったか、わかっているつもりだ。それでも、私は我慢がならなかった。私は、私でありつづけたかったのだ」 足枷に繋がった鎖を手繰り寄せ、行動を阻害する以外に存在理由のない鉄の塊を両手で持ち上げる。 「奴らが見たら、さぞ笑うだろうな。極刑は免れたものの、氷の沼で気が狂ったと。ちょっと下がっていなさい」 ガツッという音をたてて、鉄塊が氷にめり込む。しかし、氷は割れない。 「この・・・っ!」 再び鉄塊を叩きつけるが、まだ割れない。 ・・・アリガトウ・・・異界ノ人・・・ 「私だって、お前を見捨てて後悔したくないのだ!」 ビキッ! 氷の表面に、蜘蛛の巣のようにひびが入り、「僕」の姿が見えなくなった。そして、あの暖かな光が氷に乱反射し、私の足元から洞窟中に広がっていく。 「なに・・・」 「僕」と同じ金色の光が走り、洞窟の床に紋様を描いていく。私は、その中心にいた。 『時は満ちた。今こそ縦列世界を越える道を開き、 かすかな恐れに半歩後退るが、氷を叩き割った池の上に、微笑を浮かべた「僕」が 差し出された手を取るのに、迷いは無かった。なぜなら、こんなにも美しいものを見たことはなかったからだ。 そう、まるで、夢のよう・・・ 『ありがとう。さぁ、行こう。そうだ、僕の名前はね・・・』 |